白鵬への批判が、差別意識に基づくものではない理由。

白鵬の千秋楽の変化に対する是非について、論点が変化してきている。
当初は優勝の懸かった一番が呆気ない形で終わったことによる是非だった。問題は至ってシンプルで、期待していた好取組がつまらない形で終わってしまったこと。そしてそのつまらなさが臨界点を超えたこと。期待の高さとつまらなさが極に達し、怒りの感情が爆発したという話だったのである。
これが優勝インタビューでの反応によって、問題の受け止め方が大きく変わる。インタビューを汚す野次、罵声。そして、白鵬の涙。悪いのは白鵬だけでなく、そうした声を挙げる観客もだった。
会場に詰め掛けたファンが白鵬に批判的だったのは、問題が今日に始まったことだからではないからであろう。思えば白鵬のスタイルは旭天鵬優勝の辺りから明確に変化してきていた。ラフな戦略も、立合いでの駆け引きも、ダメ押しも目立ってきたのはこの頃からだった。
当時はそんな白鵬に対して抱くのは怒りというよりは戸惑いだった。まだ心の中の白鵬は、相撲界を救い続けてきた白鵬だったからだ。だが、これが審判部批判で一気に白鵬に対する意識が変わってしまった。様々なマイナス行動に対して一旦咀嚼するというプロセスを経ずに、いきなり負の感情を覚えるようになってしまったのである。
だからこそ、本来日馬富士こそが一番悪いにもかかわらず、会場に押し寄せたファンは白鵬に対して怒りの声を挙げたという訳だ。
一方、相撲をあまり見ない方からすると白鵬に対するこの辺りの感情がそれほど無いために、取組に対する評価もフラットだ。大相撲の美という刷り込みも相撲ファンと比べると希薄なので、立合の変化についてもそれほど拒絶反応が無いのかもしれない。
どちらかといえば彼らにとって引っかかるのは観客の反応だった、ということだ。翌日のニュースでは白鵬に対して汚い言葉を吐き掛けるファンの様子が繰り返し放送された。大相撲の第一人者が異国の地で苛めを受けているという構図になってしまったのである。
相撲に対する理解が失われつつある今だからこそ、これは大きな危機だと思う。相撲ファンの大部分はこうしたスタンスではないのだが、昨今の報道とその受け止め方を考慮すると誤解が生じているように感じるからだ。
前提として、あの時の野次や罵声は有ってはならないことだ。どのような出来事が有っても、守るべきマナーは有る。その一定のラインを飛び越える出来事だったことは間違いない。故に彼らは相応の裁きを受けるべきだと思う。
ただ誤解してほしくないのは、これだけ白鵬に対して激烈な感情を抱くのは彼がモンゴル人だからという意識によるものでは断じてないということだ。もし彼を異物として扱っているならば、異なる相撲に対して一定の理解を示すことになるだろう。むしろそうした意識で接していたのは、朝青龍の方だったように思う。何故なら、朝青龍の取組は日本人のそれとは明らかに異なっていたからだ。
野性味溢れるスタイルは当時の大相撲を席巻した。あのような相撲を、誰も観たことが無かった。当然好き嫌いは別れていたのだが、一定の割合で支持を集めていたのは特異なスタイルで且つ圧倒的だったらだ。つまり、朝青龍は区別されていたからこそ支持を集めていたのである。
白鵬が突き詰めたのは、朝青龍とは対極の相撲であり、生き方だった。白鵬はモンゴル人でありながら日本の大相撲の集大成とも言うべきスタイルを突き詰め、当時大ヒールだった朝青龍と対峙していた。そういう白鵬のストーリーに共感してたわけだ。
そして数々の不祥事の頃に白鵬が見せたのは、横綱としての威厳ある振る舞いだった。その横綱像というのも、大相撲の歴史の中で長年かけて構築されてきたものだった。つまり何が言いたいか。白鵬が支持されてきたのは、彼が大相撲の理想像を体現してきたからであり、そこに区別も差別も無かったのである。
翻って今白鵬が批判されているのは、今まで体現してきた像とは異なるからである。言い換えると白鵬を素晴らしい力士、素晴らしい人間として捉えているからこそ変わり果てた白鵬に対して落胆するのだ。
汚い話ではあるのだが、野次というのはあくまでもそれを口しているだけであって、同じような感想を抱いている観客は星の数ほど存在しているということだ。あの日の府立体育会館は、白鵬の優勝インタビューを観ること無く帰宅するファンが続出した。前代未聞のことだが、観客は素直としか言いようが無いと思う。
まだ2011年の白鵬を求めるファンが居る。それを求められなくなった時、白鵬は白鵬でなくなる。それほど、白鵬は特別なのである。
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