大相撲のライバルが、過去の大相撲である理由。

先日朝活講師を務めたときのこと。
相撲にそれほど興味が無い方からディープなファンの方まで、実に多種多様な方が参加されていたのだが、そういう中で「あなたの考える史上最強力士は誰か」というテーマについて各自に語っていただいた。
日本人であれば、これまでの人生の中で何かしらの相撲的体験は経ている。好きの度合いは異なるが、異なるからこそ見方が異なる。「最強」を「最狂」と捉える方も居ればパラレルワールドとして「if」としての最強を語る方も居た。そして、強さの尺度を相撲の強さに限定しない、私のような方も中には居た。
最終的に総括すると、それは各自が思う最強であり、強さを通じていかに力士に思い入れを抱いているか、ということが問われていたのだと思う。それ故に、それぞれの見方を共有出来たことは非常に楽しいことだった。身近に友人が居れば是非一度行っていただきたいほどである。
さて、そんな史上最強力士という話題についてのことだが、後で考えてみると少し驚いたことがあった。私の記憶では、白鵬と答えた方が居なかったのである。
誰がどう見ても強いのは間違いない。数字で見ても印象で見ても、どちらを取っても確実に最強の一角、いや、最強の最右翼に位置する白鵬を支持する声があるのではないかと感じていただけに、これはかなり意外だった。当然その強さを評価することも、そしてその強さに対して思い入れを抱くことも自然なことだと思う。だが、あの場にはそういう方は居なかったのである。
これは一体何故なのか。少し考えてみると、参加者の回答に一つの特徴が有ることを思い出した。そう。かなり多くの方が支持したのは、彼らが幼い頃に目撃した力士だったのである。
記録上、その時の力士よりも優秀な力士は存在する。技術革新が各時代に起きている上に、過去の取り口に対してはある程度の攻略法も編み出されている。トレーニングも整備され、体も大きくなってきている。過去の力士と対戦させたら現在の力士が有利であることは間違いない。
そういうことは、誰もが知っている。しかし、記憶の中の過去の相撲を超えられない。だから最強力士のような思い入れの話になると、過去には勝てないのである。
過去は美化される。素晴らしい思い出が有るからこそ、今も相撲を観ている。そういう意味では過去は財産だ。
ただ、過去が素晴らしければ素晴らしいほど、大変なのは現在だ。今の相撲は過去と比べると恐らく一番素晴らしいはずだ。だが、素晴らしい思い出によって今の素晴らしさを認められないのだとしたら、それは大変皮肉なことだと思う。
つまり大相撲のライバルは、野球でもサッカーでもない。過去の大相撲のなのである。
過去の大相撲を超えるには、内容で過去を圧倒せねばならない。記憶の中の最強力士を凌駕するような、素晴らしい相撲を取り続けねばならない。今の相撲ファンは、朝青龍を経験している方も居れば若貴ブームを経験している方も居る。千代の富士や輪湖、柏鵬や栃若、さらに高齢になれば双葉山すら経験している方も居る。
記憶の中の双葉山や大鵬、貴乃花に今の力士は挑んでいる。戦っているのは、目の前の力士に対してだけではない。そう。彼らは歴史と戦っているのだ。
大相撲よ、過去の大相撲に勝て。
初場所は熱戦を期待したい。
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大相撲のライバルが、過去の大相撲である理由。” に対して1件のコメントがあります。

  1. nihiljapk より:

    やっぱり今を生きる力士は、何時だって大変なんだと思います。
    貴乃花もひどい報道されていました。
    各自が一歩引く余裕を持てば、楽しく見られるんじゃないかと思うんです。

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