魁皇コールに端を発する、観戦マナーの変容に思う。

把瑠都への帰れコール問題の時に、
観る側の品格という問題に言及した。
勝者を称え、敗者を思いやるという
日本的な美学がかつての、いや
10年前までは受け継がれていた。
だが、ここ10年で良き伝統は少しずつ
変容してきている。
私の記憶では、一番最初にこの形が
崩れたのは15年程前の寺尾コールだったと思う。
いいの?
おい、いいの?
そういう感想を抱いたと記憶している。


さすがにこのコールは一部の集団が
行ったものだったために
館内に少し異様な空気が漂っていた。
そのためか、コールを行うものは
しばらくの間現れなかった。
しかし、10年ほど前にコールを定常的に
行う集団が現れた。
そう。
魁皇のファンである。
九州場所になると巻き起こる魁皇コール。
しかも、毎日。
誰も止める者が居ないから
市民権を得たものだと認識し、
また新規ファンの中でもこれに追従する者が現れ始める。
気が付けば九州場所でのコールは定着し、
またその対象は魁皇だけでなく
他の力士にも波及した。
これは決して魁皇が悪いわけではない。
周囲が彼らに対して注意しなかった結果、
伝統的な美が崩れる結果となってしまった。
勿論相撲を観戦する上でのマナーというのは
定義がなされておらず、あくまでも
こうした観戦の美というのは暗黙の了解として
認識されていたに過ぎない。
また、相撲人気が低下している昨今だからこそ
観戦の仕方についても多様な在り方が
在ってしかるべきという意見もある。
確かに外野席で声を上げる応援から
野球の魅力に取りつかれるということや
ゴール裏でほぼ生まれたままの姿で応援する
サッカーのサポーター的な楽しみ方も有る。
だが、考えてほしい。
相撲を相撲たらしめているのは、
あくまでも相撲が只のスポーツではなく、
日本文化の伝統を引継いでるという点である。
日本的な美が有るからこそ、相撲は特別なのであり、
逆にこの部分を喪失してしまったのでは
相撲は単なる競技に成り下がってしまう。
相撲の成り立ちは神事であり
現在はその側面を形式にのみ受け継がれているが、
神事を観るには観るなりの気構えで
臨まなくてはなるまい。
そもそも、コールすることはそこまで重要だろうか?
力士の名前が書かれた紙をワサワサさせることが
相撲への入り口となり得るのだろうか?
私はそうは思わない。
本当に大事なことは、相撲という競技を
形成している文化的な側面である。
だからこそ、私は以下の2点を観戦する上で
譲れないマナーとして提唱したい。
・集団で同じ動作をしないこと。
・周囲に迷惑を掛けかねない行為は自重すること。
恐らくこれだけで雰囲気を乱す行為は
無くせるのではないかと思う。
だが、観戦マナーについては様々な意見が有るかと思う。
これはあくまでも私の意見に過ぎないので、
この場を借りて、忌憚の無い意見を
聞かせて頂ければ幸いである。

魁皇コールに端を発する、観戦マナーの変容に思う。” に対して10件のコメントがあります。

  1. tama より:

    はじめまして。
    私も「帰れコール」と「魁皇コール」は残念に思っています。
    私は剣道をやっていますが、
    剣道の試合会場は他競技の経験者、観客から見れば
    一種異様な雰囲気だと思います。
    競技中はしんと静まりかえり、
    聞こえるのは選手の気合いと竹刀が重なる音だけ。
    (地方の小さな大会では親の声援がある場合もありますが)
    応援は原則拍手のみ。
    もちろん競技者のガッツポーズは御法度。
    (一本は取り消しになります)
    同じ武道でも柔道などは、オリンピック等急激な
    国際化の影響からか「選手コール」や「ガッツポーズ」
    は当たり前となっており、非常に寂しさを感じます。
    相撲も例外ではなく、「帰れコール」と「魁皇コール」や
    横綱のガッツポーズなど見るに堪えない場面に遭遇します。
    相撲も相撲道といって武道の一つであると言うならば、
    その辺の行為に対する自制を
    力士や観客に求めていくべきだと思います。

  2. スモウレスラーはいらない より:

    はじめまして。「忌憚の無い意見を」との御言葉に甘えて、稚拙ながらもコメントさせていただきます。
    私も「帰れ」コールの記事を読み、残念に思った一人です。
    まさにプロレスになってしまったのかと。
    これと同じようなことで、競馬の世界では大きな音で馬を驚かせないというファンも認知した共通ルールがありました。
    しかし、JRAが売り上げ向上のために若者をターゲットに動員を増やした結果、いつの間にかファンファーレに合わせての手拍子、大歓声、ハズレ馬券を破いての紙吹雪が当然の儀式となりました。
    ファンの心「粋」が薄れてしまった今となっては、残念ですが主催者側の規制も必要となるでしょう。
    また、今回の件について言えば、張り詰めた緊張感と一進一退の攻防に息を呑み、悲鳴に近い歓声があがるような相撲で観客を唸らせることができなかった大関の技量・器量の小ささにも問題があるように感じました。八百長問題などで失墜した相撲界を再興するような白熱した一戦はもう望めないのでしょうか。

  3. なの。 より:

    応援のマナーについては、そろそろ興行を打つ側が何らかの行動をとるべき時に来ているのかも知れませんね。
    記者会見でその事に触れて、ホームページに掲載して、会場にたて看板を用意して、館内放送でもその旨を流し、注意する。
    内容はまさに挙げられている二つで良いと思います。
    「神事である」という理由を押し出せば、観客の理解も得られるのではないでしょうか。

  4. はじめまして。 より:

     二度目のコメントです。
    “魁皇コール”の前に、九州場所で“魁皇に対する手拍子”があったように思います。
    私は、力士が集中したいはずの仕切りの最中に、ヒイキの力士の集中力を削ごうというのはいったいどういう人たちなのかと思ったものです。
    その後、名古屋場所で琴光喜に対しての手拍子があって、琴光喜本人が、“あれはうるさい”という様なことを言ったような記憶があります。(その後応援に感謝してた様な)
    それはさておき、今のお客さんはアレなんだろうから、マナーといってもどうなんですかね。
    序の口や序二段の力士が人生をかけて相撲を取ってるのをバックに、缶ビールもって記念撮影してる人が升席に座ってたり、
    そのそばで弁当売りが前を横切って肝心の相撲が見えなくなったり、こんなもんにマナーも何もありゃしねえでしょう。
    テレビで見てても、本来維持員席って決まった人しか座れないはずなのに、毎日毎日別の有名人が座ってるって、暴力団じゃなければ良いのですかね。私はわけがわかりません。
    相撲は神事なのですが、そのことを大きな声で言うと、公益法人としてまずいので、NHKなどでは伝統文化と言い換えているのでありまして、間違っても形式的になっているものではありませんし、ありえません。(小泉元首相の靖国神社参拝問題が華やかなりし頃でも、靖国神社奉納相撲は行われているはずです)
    とりあえず、あの大きな吊り屋根を見て、神聖さを全く感じない人々が、日本人の中でも多数派になってきたんでしょうね。

  5. がrrrrrrrrふ より:

    他の方々と違った見方もあったほうがよいのではと考え、書き込みます。管理人さんのように考え、たとえば周囲の人にふるまい方を改めるように要求したり、このようなところで 訴えたりするのは、もちろんよいと思います。共鳴する人もいるかと思います。
    しかし、世の中にはいろんな人がいます。相撲に対するとらえ方も様々でしょう。イベントとして部分的に参加もしつつ楽しみたい人、スポーツととらえる人、社交のために来てる人、等等。「相撲は神事だ」と言っても、そもそも神道を基盤とする考え方に共鳴しない人もいるでしょう。
    そんな状況下で、ある特定の観戦の仕方を要求したとして、その人たちはそれでも、自分の時間・お金を使って、他のものではなく、相撲を楽しみたい、と 思うだろうか、ある種の人々を、極論すれば排除したとき、今のような観客動員が見込めるのか、盛り上がりはあるのか、等等等…… ということを……
    「相撲協会がどう考えるか」、ここに尽きると思います。どんな人たちに見てもらうのか、そのために相撲をどのような性質のものと位置づけるのか、変えるのか、変えないのか、興行なのか、スポーツ なのか、神事なのか。それは相撲協会が、公益法人を目指す団体としての使命だか、自らのアイデンティティだか、相撲への愛だか、単なる自己保全だかなんだか分かりませんがそれを賭け、必死で考えて、お客と位置づけた人たちに向けて、示すべきこと、それ以外ではありえない。
    だからむしろ、相撲を大切に思う人なら、「どうすんだ相撲協会!!」とこそ言うべきかと。「そんな事分かってらぁ」ということを申し上げたかもしれません。ですが、上述が正しいとすれば、率直に言って、どう声高に、「相撲とはこういうもんだから理解して鑑賞しろ!」と世の中に言っても、ほとんど意味はない。その人たちにとって楽しめないものならば、ただ去っていくだけではないでしょうか。ちなみに、今のところ協会の考えてることは「神事であり、スポーツであり、興行でもある、だからみんな来てね」であるように見えます。だとすれば、目をつぶらなきゃいけないところも、出てくるだろうなと。
    最後にもう一つ。日本人のマナーはそんなに(悪く)変わったのでしょうか? そして、相撲は(よい意味で)変わることなく、何かを守り続けてきた、という認識でいいのでしょうか? 大相撲は、そのときそのときの日和を見つつ、おいしいところはあざとくいただきながら、けっこう柔軟に、世の中に適応してきた集団だ、 と思えるのですが。そして、今は、ここまでがおいし過ぎたがゆえに、変わる決心が付けられなくて困っている、と見えます。

  6. Nihiljapk より:

    >スモウレスラーはいらない さん
    コメントありがとうございます。
    相撲に限らず、ここ20年の間に
    スポーツそのものの観方がかなり遷移している
    という観点は無かったので、非常に納得しました。
    共通して言えるのは、相手に対する思いやりが
    失われているということもよく判りました。
    良くも悪くも自分の思いを選手に伝えるという行為が
    前面に出ていることに気付かされました。
    あくまでも私見ですが、相撲の質は運動能力の高い
    外国人力士の存在によって非常に高くなっていると感じます。
    ただ、技術と体格の向上によって高度化しているにもかかわらず
    かつての熱気を取り戻せていないことには真摯に向き合わねば
    成らないと感じました。

  7. Nihiljapk より:

    >なの。さん
    コメントありがとうございます。
    応援の仕方が二極化していて、
    集団で声を挙げるという行為について
    旧来の観方をしている人は
    顔をしかめる事例も増えているので
    どう在るべきかを考える時期に来ていると思います。
    何が大事で、何は変えてもいいのか?
    今まで向き合ってこなかった命題について
    判断を下す必要があるのではないでしょうか。

  8. Nihiljapk より:

    >はじめまして。さん
    コメントありがとうございます。
    総じて言えるのは、
    観ている人の価値観が変わってきている
    ということですかね。
    マナーが低下している、という言葉ではなくて
    本人達がマナーに反するかもしれない
    という思いを抱かないまま、他のスポーツ観戦と
    同様の価値基準で相撲を観ていることが
    応援スタイルにも反映されているのだと感じました。
    例えば歌舞伎を観に行っても同じことをするのでしょうか?
    例えば落語を観に行っても同じことをするのでしょうか?
    …するのかもしれないですね。
    それは恐らく、日本的な文化に触れる機会が
    相対的に失われたことが原因であるように思います。

  9. Nihiljapk より:

    >がrrrrrrrrふさん
    コメントありがとうございます。
    おもしろい名前ですね。
    さて、私がこの場を借りてこのような意見を述べたのは、
    本文中でも触れていますが、相撲の見方について
    どう在るべきかを考えるためです。
    今までこうした議論が為されたことは無く、
    相撲ファンの方やそうでない方も含めて
    どのような見方をしているのかを
    俎上に上げてみたかったということも有ります。
    日本的な美点を踏まえた観方が失われ、
    いわゆるスポーツ的な観方をする方が増えてきています。
    野球場でもトランペットを使った応援に異を唱え、
    「球音を楽しむ日」というイベントが
    開かれた経緯も有ります。
    これが一つの契機になればと思っています。
    どのような結論に至るかは相撲協会次第であり、
    多様な見方を受け入れるか否かという議論も有りますが、
    一つだけ確実に言えるのは、
    スポーツライクな応援が通るとなると、
    いわゆる相撲の日本文化を踏襲した特別感は
    決定的に失われてしまうということです。
    それを踏まえたうえでスポーツライクさを選択するのか?
    ということを考えてほしいのです。
    ちなみに、日本人のマナーが低下したというよりは
    この問題に関して考えると他のスポーツの観方を
    踏襲した人が観に来ているだけなのであり、
    決してそこには悪気はないと思うのです。
    ただし、美意識という観点で言うと美しくは無いと思いますが…

  10. 柴田進 より:

    マナーについてのコメントではなく恐縮ですが、
    本文中の「只のスポーツ」というフレーズが気になるのでコメントさせていただきます。
    スポーツは、「特別な相撲」と、「特別ではないただのスポーツ」に、二分できるのでしょうか?
    「相撲」が、固有の文化と歴史と特徴を持っていることは否定しません。
    日本人なら誰でも知っていることです。
    ですが、それは野球でもサッカーでも同じではないでしょうか。
    他の方が挙げられている剣道や競馬の例からも分かるように、
    それぞれのスポーツが、固有の文化と歴史と特徴を持った
    特別な存在なのではないでしょうか。
    だからこそ、相撲は相撲、サッカーはサッカーであり、
    応援スタイルだって同じではないのです。
    スポーツ(文化)としてではなく、興行(ビジネス)として考えた場合、
    またちょっと違うコメントになります。
    どんなビジネスでも、主たる顧客として狙っている「層」があるはずです。
    狙った顧客層の人たちにこそ満足していただき、
    末永い取引をしていただかないと、ビジネスというのは安定して発展出来ません。
    そういう人たちが不快に思うような、別の「層」が紛れ込んで来たら、
    矯正、さもなくば排除するのが興行主の仕事ですね。
    「お客さまなら猫も杓子も神様です。」なんてビジネスは、そう多くはないと思います。

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