豆まきに見る、アイドルとしての力士論。

2月3日。
節分である。
豆を播いて鬼を払い福を呼び込むという
日本の伝統的な行事であるが、
相撲ファンにとっては非常に貴重なチャンスが
待ち受けている。
そう。
各地の節分祭に、力士が参加するのだ。
しかし、相撲ファンにとって力士を観る
機会というのは年に6回、しかも15日間も有り
合計すると90日と途方も無い日数が提供される。
4日に1度はスポーツニュースで相撲の
結果を観られるのだから、
我々は空気を吸うのと同じ感覚で
相撲に触れているのである。
だが、節分の豆まきに力士が参加するということには
特別な意味が有る。
つまり、土俵を下りた生身の力士に
逢えるということである。


我々は普段、土俵の上で戦う戦士としての
力士の姿しか知らない。
そこには漢達が鍛錬の末に自らの
一生を賭けて戦う非常にストイックな姿しか無いのだ。
優勝を賭ける者、昇進を賭ける者、
そして降格を賭ける者。
それぞれにそれぞれのドラマが有り、
それ故にギリギリの戦いが展開される。
こうした力士の生きざまに我々は
自らの生き方やアイデンティティを投影させ、
思い入れをもって相撲を観戦するわけだが、
豆まきに於ける力士の位置付けというのは
普段とは著しく異なる。
つまりそこには土俵上の戦士ではなく
気は優しくて力持ちな、
一人の男が存在するわけである。
「アイドルの魅力とは、完成度の高い中身見られる
生身の女の子のほつれである」というのは
高名なアイドル評論家の名言であるが、
力士にもこれは当てはまる。
彼等は土俵上での完成度から
かけ離れたアイドル的なほつれを見せてくれるのである。
隣の有名女優に鼻の下を伸ばしながら
豆をまく力士。
巨大な升に巨大な手を突っ込み、
有り得ない分量の豆をまく力士。
殿様のような出で立ちで豆をまく力士。
そう。
全てが萌え要素なのである。
以前であれば大相撲運動会や
大相撲歌合戦など、力士の中のほつれを
白日の下に晒すイベントはそれなりに
存在していたのだが、最近はほぼ失われているのが
実情である。
逢いに行ける力士が、そこには居る。
時間が有る方は是非近所の神社に足を運び、
萌えの権化と化した力士を観て
悶え苦しもうではないか。

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