絵本作家:貴乃花の「光のテーブル」を今私たちが読まねばならない理由。後編。

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前編を振り返る。

前編はこちら。

絵本作家:貴乃花の「光のテーブル」を今私たちが読まねばならない理由。前編。

 

貴乃花、絵本作家転身。

 

この大ニュースは大相撲11日目の結果を吹き飛ばし、テレビとネットを揺るがした。すべてを失った貴乃花が選んだ次の道はまるで予想だにしないものだったのだから、私を含めて人は驚いた。

 

何しろ、貴乃花が絵本だ。全く結びつかない二つが結びついた時、果たしてどのような化学反応が生まれるのか。そもそも貴乃花は絵本を通じて何を伝えたいのか。絵本でなければいけない理由はあるのか。参議院選挙に出るという話はどうなっているのか。

 

色々と考えるべき情報が今の貴乃花には多すぎるのだが、そのような状況で出した絵本だ。そこには何かの必然性があるに違いない。単に「なんとなく」だけでは片づけられない何かが。

 

ただ、私が最初に持っていかれたのは物語中に登場した「おとこは、いちどきめたら、さいごまであきらめるな」という、2019年の日本において全く伝わらないであろうフレーズだった。絵本的な表現、絵本的な物語の構造を全く無視した、ひたすら説明が過剰な部分が際立つものだった。端的に言うと貴乃花の絵本「光のテーブル」は、絵本的には不出来な私小説だった、と言わざるを得ないものだったのである。

 

主人公のカエル=カルルは貴乃花の分身であり、幸せな花田家を離れて相撲部屋入りし、「いちばんわかいゆうしょうしゃ」という貴乃花と同じ栄冠を手にしたところで前半は終わった。

 

さて、栄冠を手にした後のカルル=貴乃花を待ち受けるのはどのようなストーリーなのだろうか。不出来な絵本という印象は払拭されるのだろうか。

栄光を掴んだ後のカルル

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それからカルルは、みんなのにんきもの。

りっぱなほらあなにすんで、

めしつかいがなんにんもいて          

どこにいってもそのみせの

いちばんおいしいりょうりを

だしてくれます。

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やっぱり貴乃花は自らの経験でダメ押ししてきます。ダメ押しが得意なのは絵本作家:貴乃花の特長だと前回指摘しましたが、「りっぱな洞穴」=豪邸、「召使」=付き人、「一番おいしい料理」=どこでもVIP待遇という、やはりカルルは貴乃花自身というエピソードをここでも盛ってきます。

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なにひとつ 

たりないものはありません。

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そして、こんな言葉が添えられました。物語の中盤でこのフレーズが出てくるということは、

    不幸な出来事がこの後起きる

    実はカルル君は満たされていない

といういずれかの展開が待ち受けているはずです。貴乃花は果たしてどのような展開を持ってくるのか。私小説ですから流れ上ここでりえちゃんとの破局をにおわせるエピソードが出てくるのが本来妥当なのですが、両親が朗読をやめてしまうのでさすがにそれは無いことでしょう。

栄光の果てに、満たされぬ思いが・・・

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なのに どんなに

おいしいりょうりをたべても

なにかものたりないのです。

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先ほどの予想の②のほうが正解だったようです。カルル君は満たされていません。貴乃花が飢えていたものって何だったのでしょうか。というか、なんでカルル君は真夜中にこんなところで考えているんでしょうか。豪邸に住んでいるのに。

 

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カルルは、ほしぞらをみながら

つぶやきました。

 

そうだ。

このほしぞらのしたで

かぞく4人でたべた

ピョンコなべがたべたい。

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貴乃花が満たされていなかったのは、家族の愛情だったのです。夜中に星空で考えたという不自然なシチュエーションはかつての幸せと団欒の象徴をカルル君に想起させ、足りないものに向き合わせるという効果があったわけですね。家族の愛情に飢えているということなんて、星空の力を借りなくても気づけよ!とも思いますが・・・

 

そして、カルル君の幸せの象徴=鍋 がここで出てきました。「ピョンコ鍋」。お母さんの愛情の象徴です。憲子さんが作ってくれた鍋です。ちなみにピョンコ鍋は当然ちゃんこ鍋と語感を被せています。ここでもダメ押しは続きます。

 

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けっしてりっぱなりょうりでは

ないけれど、

みんなでたべた

あのなべのあじが

わすれられないのです。

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愛情が足りないと気づいたカルル君、果たしてどこに向かうのでしょうか。ちなみにおかあさんの鍋を「決して立派な料理ではないけれど」ってさりげなくdisるのが個人的にはツボです。そこの表現はバッサリカットでも良かったと思いますが、敢えて入れてしまったところがクセになります。

 

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「もしかしたら、いまごろ

みんなもこのおなじほしぞらを

みているのかな」

カルルは、いてもたっても

いられなくなりました。

 

かぞくにあいたくて

たまらなくなりました。

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ちょっと意外な展開です。

全てを投げ打って大相撲の世界で寝食を忘れて闘って、全てを手にした貴乃花がカルル君に自己投影しているのだとすると、ここでこんな弱気なことを考えずに横綱として勝つこと、大相撲に尽くすことに邁進するはずです。ここまでの私小説の筋書きで言えばそうなるはずですし、どちらかと言えば家族が登場して、家族と価値観が合わずに決別する、という筋書きになるんじゃないかと思いました。しかしそうではなかった。

 

私小説だったはずの「光のテーブル」はここで急展開を迎えます。

 

 

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「そうだ。おかあさんは、いつも

あとをついてまわっているボクを

やさしくだきしめてくれたっけ。」

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貴乃花は憲子さんのことが大好きだったのです。

 

 

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「おにいちゃんは、

ぼくのことをいつもそばにいて

しんぱいしてくれたっけ。」

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そうです。

勝(虎上でいいんでしたっけね)さん、いつも周りの見えない貴乃花をいつも心配していました。貴乃花、そういう想いをまだ捨ててなかったんですね。そして、兄のことも分かっていたんですね。

 

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おとうさんは、いつも

お風呂でぼくのせなかを

あらってくれながら、

いろいろはなしをしてくれたっけ。

なのに・・・

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大関に背中流してもらってたんですね。

お父さん(貴ノ花)のことについては死後比較的良好な感じのコメントだったのでなんとなく分かる気もしますが、憲子さんと虎上さんへの気持ちは意外でした。整体師を巻き込んだ騒動で、完全に破綻したはずの家族関係に対する、貴乃花の慟哭にも似たような、そんな心情が分かります。

 

そしてそれは、自らの家庭、景子さんと3人の子供、特に靴職人になった優一さんとの関係性の破綻に対する叫びのようにも見受けられます。自分の近く家族が居て、それを捨てることで横綱にまで上り詰めて、その先にあるものは失ったものに対する後悔がありました。てっきりそういった部分は既に折り合いが付いているのかと思っていたのですが、違ったのです。

家族の元に帰るカルル。しかし・・・

 

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「ボクは・・・みんなをすてて

とびだしてしまったんだ」

きがつくとカルルは、

いえにむかってあるいていました。

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これは驚きました。

 

それでも闘う道を選んだのが貴乃花という人でした。相撲のために一心不乱になって、横綱という人格を作った結果が、家庭崩壊でした。横綱としての価値観が周囲との軋轢を生み、父も、母も、そして同じ横綱だった兄でさえ離れざるを得ませんでした。ですから、私小説で終わらせるのだとすると、家族と衝突しても自分を貫くという描写になっていたのではないかと思います。

 

つまりここから先は、今の貴乃花が「こうありたい」と考えているファンタジーのストーリーが展開されることになるわけですね。

 

ちなみに牛さんがたくさん居る農場を通過しています。

 

 

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さがしてもさがしても

しっているけしきが、

あらわれないのです。

いったいどうしたらいいんだ。

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家に向かって歩き始めて、どう戻ったらいいかわらなない。

 

道を聞くとかいろいろ手段はあるかと思います。まぁ勿論この世界にスマホもないし、交通手段もない。あ、そうか。このストーリーの性格上、交通手段を作っていたら家に帰れてしまうので、車や電車という手段を用意しなかった。いや、できなかったということなんですね。ストーリーの都合上、家族を探すことに苦労し続けるカルル君はかなり気の毒ですが、こういう世界だから仕方ない。

 

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つかれはてて

すわりこんだカルルは、うたいました。

ちいさなちいさなこうえんいけのうた。

なかよしかぞくのたのしいうた。

こえのかぎりにうたいました。

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唐突に歌い始めました。物語の中で初めてカルル君が歌っています。家を出る前に歌うのも好きみたいな描写があればよかったのですが、いきなり歌うのでちょっとどうしていいのかわかりません。さて、家族との楽しい日々を歌った先に何があるのでしょうか。

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ほしぞらにむかってうたいました。

でも、どこからもへんじは

かえってきません。

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あ!

これ、家族が近くに居たら反応してくれるかも、っていう意味での歌だったんですね。だとしたら相当実家の近くで歌わないと・・・。道もまだよく分からないところで歌ってもそりゃ聞こえないですよ。

 

さて、歌声も響かない。道もよく分からない。

そんな状況でカルル君、どうするのか。

歌声が家族に届かない。そこでカルルの取った行動とは?

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カルルは、じまんのあしでとびました。

ピョンピョンピョーン!と、とびました。

とおくをみつめてとびました。

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家がどこにあるかわかんないから飛んでみたんですね。今更ですけど地図とか無いんですかね。あと、せめて村の名前とか、国の名前とか、なんか手掛かりは無かったのかなぁ。そういう手掛かりがない状態で家に帰りたい!と思ったとき、最初にどういう方角に向かっていったのでしょうか。

 

正直無計画過ぎかつ無鉄砲過ぎて、エキセントリックなところも含めて貴乃花の匂いがするカルル君が、実家が見つからないために、「どこに家があるのか」を確認するための方法は、飛んで実家が無いか探してみるということでした。

 

スカイツリーとか東京タワーとか、富士山とか有ればですけど何を目標にしてカルル君は実家を探しているんでしょうかね。もしかして実家の近くの「こうえんいけ」でしょうか。結構似たような池って多いはずなので、来た道の記憶も曖昧な状態でこれやると仮に池見つけても「あれ、実家のちかくのやつだっけなぁ・・・」とよくわからなくなると思うんですよ。その特徴が分かるくらいなら来た道も大体覚えてるはずですから。

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でも、あのちいさなこうえんいけは

みえません。

それでもなんどもなんどもとびました。

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まぁ、そりゃそうなりますよね。

道に迷ったらまず原点に帰ることから始めるのが基本ですが、まだあきらめずに飛んでます。たぶんこれ道間違えてると思うんですよねぇ・・・

 

とりあえず、戻ろう。

あと、道聞こう。

 

 

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いちばんたかくとんだとき、

カルルは、

まんてんのほしのなかにいました。

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カルル君、飛ぶためのトレーニング積み過ぎて、飛んで星の中に行っちゃいました。高度的には飛行機とか飛んでる辺りと仮定すると、数千メートルは飛んでます。滅茶苦茶飛んでます。そりゃあ最年少のチャンピオンです。ここまで飛んだら相当寒いはずです。たぶんマイナス50度とかヤバい世界のはずです。変温動物だからどうにかなるとかそういう次元をはるかに超えてます。あと、気圧も相当なことになっているかと思います。空想科学読本でも読んでちょっとこの辺りは調べてみたいところですが、この世界で裸でなんとかなるのはたぶん、フィクションの世界込みで考えても宇宙空間から身一つで帰ってきた男塾塾長:江田島平八くらいです。

 

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「そうだ。ボクがかえりたいのは、

 このほしのひかりのテーブルだ。

 みんなでごはんをたべた、

 このひかりのテーブルだ!」

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ここで久しぶりにタイトルコール入りました。

ずっと疑問でした。なんでこの話が「ひかりのテーブル」というタイトルなのかが。ようやくここで家族の団欒を象徴する存在としてキーワードが浮上しました。

 

さぁどうなるんだ、カルル君。

転落するカルル。

 

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そうおもったとたんカルルは

あしをふみはずして

ちゃくちにしっぱい。

ゴロゴロゴローーーーーーーーーー!

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がけのしたのほうに

ころがっていきました。

そのままカルルは

いけのなかにポチャン。

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衝撃の展開です。

             

足を踏み外してしまいました。しかも、池に入ってしまうという描写です。少し前までは単に設定に関する突っ込み、ストーリー構成に関する突っ込みを入れていましたが、これはもう、そういうものを遥かに超えています。転落の仕方、暗転の仕方が絵本の範疇を超えて、3Dで読者に襲い掛かってきます。これを超える表現は、「地獄甲子園」「珍遊記」の漫☆画太郎先生作品の最終回恒例の

 

「主人公が理不尽にトラックに轢かれて死亡」

 

という例のアレくらいです。気になる方はネットで検索してみてください。

 

空からの転落。物理的な転落でもありますが、これは横綱・親方としての頂点からの転落という自らに降りかかった昨年の災厄を暗示、いや、直接表現しているもので間違いありません。ただ落ちただけでなく、池に落ちる。転落して窓際に追いやられるだけでなく、窓際からすら追い出された。そればかりでなく、家族からも三行半を突き付けられた。そういう人生の転落の一部始終をカルル君の池への転落は思い起こさせるわけです。そしてこれを書いているのが貴乃花本人というところに、我々は否応なしに想いを巡らせることになります。

 

確かにこの話は不出来です。私小説とファンタジーという二部構成で、絵本と主人公:カルルを通じて貴乃花:花田光司という人間の生涯を疑似的に追いかけるという行為を否応なしに迫られることになります。ですから、絵本としての不出来な部分を突っ込みながらも、結局どうしても花田光司の人生の重みに向き合わざるを得ず、結局そこから逃れるには絵本をトータルで見ると雑味なのですが、振り切れているために雑味としての不出来を突っ込むくらいがバランスとしてはちょうどよくなるわけです。

 

さぁ、絵本作家:貴乃花光司が用意するクライマックスは、ハッピーエンドなのか。それともバッドエンドか。

ハッピーエンドか?バッドエンドか?

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それをみてだれかがかけよってきました。

「だいじょうぶ?」「けがはないか?」

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かけよってきてくれたカエルのかおをみて

カルルはびっくり。

「あっみんな!!」「カルルまってたよ」

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誰がどう見ても大ごとなのですが、そんなことはどうでもいい。

貴乃花が読者のために用意したのは、ハッピーエンドでした。

 

ヒゲ(貴ノ花)、口紅(憲子)、特徴なし(虎上)という3匹が光司の前に現れました。これは偶然です。あてもなく家路につき、方角さえも曖昧な状態で、誰にも道すら聞かずに手掛かりなしで歩いて、ジャンプして踏み外して池に落ちて救出したのが家族3人でした、なんてご都合主義にも程ってもんがあります。

 

でもそんなのどうでもいいんです。

 

だって、どん底の貴乃花が創作の世界では自らが救われるという結末を用意したのですから。これは、ファンタジーの世界のハッピーエンドです。この1年で悲惨な状況に陥った貴乃花が絵本を書いて、自分に見立てた主人公が栄光を手にして、転落するというところまでは全く同じ。違うところがあるとすると、家族に救いを見出したことがドロップアウトの理由ではなかったということだけ。それ以外は私小説です。

 

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そのひのりょうりは

もちろんあのピョンコなべ。

「もういちど

 しあわせなかぞくのはじまりだね」

カルルがうれしそうにわらいました。

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まんてんのほしのひかりが、

4人をやさしくつつんでいました。

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「光のテーブル」総評

考えてみるといくつかストーリーの中で意外なことがありました。一つは、家族が恋しくなって勝負の世界からドロップアウトしたこと。そして、ドロップアウトした後で救いを用意したこと。

 

貴乃花にとって相撲は人生そのものでした。言い換えると家族は成功の代償にさえなり得るものでした。そして実際、彼は二つの家庭を崩壊させてしまいました。だからこそ、相撲よりも家族を選ぶというカルル君の決断は貴乃花からはかけ離れているものです。筋書きが全くのファンタジーであればそこに疑問もわきませんが、そこまでのストーリーが私小説だからこそ、その分岐には貴乃花個人の願望を見出さずにはいられませんでした。

 

そして、ドロップアウト後の結末です。

せめて物語の中だけでも救われた貴乃花を見ることが出来て、安堵しました。彼の生き方を考えると、家族の幸せを捨てた先にこそ栄光があり、栄光を手にした後には軋轢があり、失脚もまた必然、という世界観があるのではないかと感じていただけに、バッドエンドを選ばなかったということが意外でした。

 

そしてここである方が語っていた見解が私にはしっくりきました。

 

「カルル君、実は池に落ちた時には既に死んでいて、家族が救い、団欒しているというのは幻想の世界なんです」

 

確かにこちらの解釈のほうがストーリーとしてはとてもしっくりきます。そもそもあれだけ高く飛んで足を踏み外して崖から落ちて、池に落ちる。無事であるはずがありません。死んでしまったと理解するに足りる表現です。ましてや、3段階の痛みを用意するという貴乃花のダメ押し理論を考えると、痛みを重ねた先の結末が死というのは非常に強い説得力を持つと私は感じました。

 

貴乃花は、家族の幸せを追いかけながら、自らの相撲道を貫いた結果、家族も相撲も失った人物です。人生の決断を見る限りでは、相撲が一番という生き方であることは疑いようもありません。ただし、ここまで家族に対する憧憬を絵本で表現し、ファンタジーとしての自分自身:カルル君が家族に囲まれるハッピーエンドを用意したところからも、その存在は非常に大きく、犠牲にしてしまったことに対する後悔を読み取ることが出来ます。

 

繰り返しにはなりますが、「光のテーブル」は絵本の表現、構成、ストーリーとしては非常に不出来です。突っ込み始めたらキリがないほど、そしてその不出来さに突っ込みを入れる行為がとにかく楽しいという時点で、これはやはり、絵本界のシベリア超特急であると私は思います。ただ突っ込むだけでも十分に楽しむことが出来るものです。

 

ただ、大相撲と貴乃花、花田光司という人間をリアルタイムで追いかけた存在から言わせると、不出来さを愛でるだけでこの絵本を終わらせることは出来ませんでした。貴乃花の人生は大相撲の歴史です。現役時代に大相撲人気をけん引し、引退後は大相撲の行く末を案じ行動し続けた。それが良い行動だったかというのは全く別の話ですが、そんな彼が私小説に近しい絵本を書いた。そこにはゆるぎない人生哲学が存在していた。だからこそ、絵本の不出来な部分は馬鹿に出来ても、その足跡を否定することは私には到底できませんでした。

 

なお、この絵本の作者は

 

貴乃花光司

 

とクレジットされています。

何故花田光司ではなく、貴乃花光司としたかは本人のみぞ知るところですが、確かにこれは生身の花田光司ではなく、大相撲の世界を生き抜き、そこで生きられなくなった貴乃花光司の私小説だからこそ、この名前を選んだと考えるとしっくり来ます。

 

貴乃花の朗読で、味わってみてください。そして、その半生と結末に向き合ってみてください。それだけの価値が、「光のテーブル」にはあります。

Youtubeはこちら。

お知らせ

1.4月13日18時30分より、大阪なんばカルチャービルでトークライブを開催します。今回は初の大阪開催となります。今まで足を運べなかった方も、ぜひお越しいただければと思います。テーマは「相撲とデータ」。これまでのトークライブの資料を基に、大相撲が抱える問題やそれにどう立ち向かっていくか、お話できればと思います。ライブの詳細と予約サイトはこちら。

2.4月06日18時00分より、錦糸町すみだ産業会館でトークライブを開催します。東京では10回目の開催となります。皆さまいつもありがとうございます。テーマは「力士と怪我」。ゲストとして現役力士の担当整体師の方をお招きし、医療の実態についてお話を伺います。ライブの詳細と予約サイトはこちら。

3.Instagramサイトをリニューアルしました。大相撲がある日常というテーマで写真を掲載しておりますので、ぜひご覧ください。Instagramサイトはこちら。

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