政経電論に「新大関貴景勝には、ちょうどよく期待したい 稀勢の里の轍を踏ませないために…」を寄稿しました。

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期待に殉じた稀勢の里、その危機にある遠藤。

政経電論に「新大関貴景勝には、ちょうどよく期待したい 稀勢の里の轍を踏ませないために…」を寄稿した。

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なぜこんなことを考えたのだろう。

このストレスの掛け方は潰れてしまうのではないか?

一人の力士が背負うにはハード過ぎるのではないか?

遠藤の時も確かにそう思った。実力からすると、注目度が先行し過ぎている。期待外れではない程度に結果を残してはいた。だが、少し足りなかった。ここまではまだ良かった。上位で勝てる相撲を構築していた矢先に、松鳳山との一戦を迎えてしまった。

怪我をすること自体はあることなので仕方ない。ただ、あの時から良い相撲と悪い相撲を繰り返す力士になってしまった。悪いなりに可能性を見せられるところも含めて遠藤の魅力だっただけに、伸びそうで伸び切れない。怪我の後遺症から脱却できそうで出来ないという今の状況は何とももどかしい限りだ。

そしてそうしてしまったのは、強行出場なのだ。

本人の責任感なのだ。

この記事では稀勢の里という過剰なプレッシャーによって鍛えられ、蝕まれ、殉じていった力士の話を書いているが、むしろ近年注目を集める力士は「鍛えられ」という面よりも負の側面に引きずられる傾向が強いように思えてならない。

貴の乱が貴景勝を特別な存在に押し上げた。

考えてみると、スポーツにあまりにきれいなドラマを求め過ぎている。国際大会はドラマを生む装置だ。オリンピックはにわかファンが集い、4年間のドラマを食い散らかすイベントだ。

だが、日常の闘いはどうだろうか。

プロ野球中継は地上波から消え、Jリーグはダゾーンに契約していないとなかなか見ることが出来ない。オリンピック種目をオリンピック前に観る機会など選考会くらいだろう。日本人同士で勝った負けたを競うという次元の闘いでは、もう満たされないのだ。

代表戦とオリンピック以外の競技は、今や全てがマイナースポーツだ。野球やサッカーの動員が伸びているというが、熱心なファンが増えているということと、世間を巻き込んでいるというのは話が違う。

そんな中で、マイナースポーツとしての大相撲は苦しい戦いを強いられているのが実情だ。平成は大相撲が国民的競技からマイナースポーツへと転落した30年でもあった。もう大相撲は共通言語ではない。職場や学校で皆で盛り上がれる話題ではない。

そんな中で幸運なことに、共通認識を持てるキャラクターとして現れたのが貴景勝だ。恐らくそのキャラクターを作ったのは、貴乃花の一件だ。スキャンダルを経て貴景勝を特別な存在にしたこと。これはたぶん、貴乃花が大相撲に残した最後の遺産だったと私は思う。

もう世間に通用する話題を作ることは、相撲協会には難しい。貴景勝は、食い散らかすわけにはいかない存在なのだ。

そんな想いを記事にしたので、ぜひご覧いただきたい。

お知らせ

1.4月13日18時30分より、大阪なんばカルチャービルでトークライブを開催します。今回は初の大阪開催となります。今まで足を運べなかった方も、ぜひお越しいただければと思います。テーマは「相撲とデータ」。これまでのトークライブの資料を基に、大相撲が抱える問題やそれにどう立ち向かっていくか、お話できればと思います。ライブの詳細と予約サイトはこちら。

2.4月06日18時00分より、錦糸町すみだ産業会館でトークライブを開催します。東京では10回目の開催となります。皆さまいつもありがとうございます。テーマは「力士と怪我」。ゲストとして現役力士の担当整体師の方をお招きし、医療の実態についてお話を伺います。ライブの詳細と予約サイトはこちら。

3.Instagramサイトをリニューアルしました。大相撲がある日常というテーマで写真を掲載しておりますので、ぜひご覧ください。Instagramサイトはこちら。

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