勝ち負けの関係無い奉納大相撲が、相撲ファンにとって魅力的な理由とは?

夜勤明けだったので、残業もそこそこに
靖国神社で奉納大相撲を観戦した。
12時前に到着したのだが、会場では既に入場制限が掛かっており
門の前で数分待機する。
この間に列で待っているご老人と他愛も無い会話に興じる。
本場所には無い光景である。
制限が一時解除され、順に入場する。
両国国技館の1Fと同じくらいの人数を収容可能な客席は、
既に満員御礼である。
座るのに頃合いの場所は既に確保されている。
仕方が無いので観客席一番奥の、立ち見スペースで
眠い体に鞭を打ち、観戦を始める。
春の陽気は過ごすには最適だが、相撲の立ち見には向かない。
フードを被り、日差しの対策を施す。
一人で相撲観戦するにはこれ以上無い程過酷な条件である。
だが、この奉納大相撲、しょっきりから幕下、矢倉太鼓に
相撲甚句、そして三役の取組に至るまで、全て堪能できた。


スポーツというのは勝敗というアングルが有るからこそ、
互いに100%の力を発揮するために各自の独自性を尖らせ、
また互いの良さを潰すために戦略を練ることになる。
そこから予想の付かないドラマが生まれる。
だから、毎日見ても飽きないのだ。
だがご存知の通り、地方巡業や大相撲トーナメントというのは
通常の場所とは趣がかなり異なる。
花相撲という言葉に代表されるように、
勝ち負けは大きな意味を持たないのである。
つまり、勝敗のアングルが無い以上、
本場所と同じような楽しみ方は出来ないのだ。
私はその意味をあまり考えないまま、
奉納大相撲に足を運んだ。
そして、花相撲にしか無い魅力に気づかされた。
そう。
緊張感の無さ、である。
緊張感が無いと言うと、マイナスに受け止めるかもしれない。
私自身、勝ち負けが関係無い相撲にテーマ性を
見出せない状態で靖国神社まで足を運んでいたが、
重要なのは勝敗ではなかったのだ。
普段力士は自らの将来を賭けて、
ある者は地位を守るために、またある者は上位を目指して
命を削るような闘いを強いられている。
怪我のリスクと闘いながら、
また自身の弱い部分と闘いながら、
目の前の強敵に自らの明日を賭ける。
1場所の負け越しが坂を転がり落ちるように
地位を失うことにも繋がりかねないし、
その一番が将来を大きく変えることにも繋がるかもしれない。
だからこそ、最近の相撲は1番1番が大一番であり、
相撲の濃度が非常に濃いのである。
誰もが地位を失うことに怯えながら、
明日が保証されていないことを自覚しながら
15日間の「大人の中間テスト」を受験し続ける。
このようなことを、1年に6回も実施するのだ。
生きた心地などするはずもないだろう。
そんな中、勝敗が関係無い相撲を取る機会を与えられる。
するとどうなるか。
緊張感が無いからこそ、力士の人間味が見えるのである。
誰もが普段の土俵では見せない、青年としての顔を覗かせる。
厳し過ぎる勝負の世界では封印している、
生身の人間としての素顔なのである。
誰もが辛いものを抱えている。
そうした日々の苦労が見えるからこそ、
たまにはこうした機会が有ってもいいと思うのだ。
普段から相撲を見ていない人には、
この緊張感の無さが持つ意味の大きさは分からないだろう。
だが、彼らの笑顔の裏には、普段の苦しさが有るのだ。
それが分かるからこそ、私は全ての力士に
良い結果を出してほしいと思う。
だが、そうはいかない。
それが、相撲という世界なのだから。

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