モンゴル的強さと、日本的強さ。白鵬に見る「光と闇の果てしなきバトル」とは?前編

小説「宮本武蔵」に於いて、冒頭での宮本武蔵は
只の粗暴な少年だった。
沢庵和尚から自らの弱さを学び、
そして認めるところから、彼は
新免武蔵から宮本武蔵に変わっていく。
粗暴だった頃はただひたすらに
野性の赴くままに闘っていれば良かったのだが、
弱さに気づいてしまった彼は
そういう自分に向き合い、克服することによって
新免武蔵の頃には無かった真の強さを身に付ける。
平成の大横綱:白鵬のストーリーも
実にこれによく似ている。


モンゴル出身の白鵬少年は、
15歳で日本にやって来た。
右も左も判らない彼は、只のモンゴルの少年に過ぎない。
何も無い彼は力士としてもまだまだで、
デビュー場所で負け越してしまう。
輝かしい経歴を持つ白鵬にしては、意外な過去である。
だがここから彼は日本で相撲を学ぶ。
相撲だけではない。
相撲とは只の格闘技ではないのだ。
そこには1200年にも及ぶ文化が有る。
そして文化の中には、その背景として
相手を思いやる謙譲の美徳、神に対する畏敬の念が有る。
白鵬は相撲部屋での生活を通じて
モンゴルの少年から日本の力士として成長していく。
その過程の中で、ただ相撲を取っているだけの
野性的な少年ではなく、日本的な、
いわば光の強さを備えた一人前の人間として成長していくのだ。
モンゴルの野性的な強さを闇の強さ、
日本的な相撲の強さを光の強さ、
という定義で考えて頂けると判りやすいと思う。
光の強さを身に付けた白鵬は番付を駆け上がり、
横綱に昇進する。
だが、彼の前に立ちはだかるのは
実に好対照な力士だった。
そう。
朝青龍である。
朝青龍の面白いところは、
日本的な光の強さを備えることではなく、
モンゴル的な闇の力を突き詰めることによって
相撲300年の歴史の中でも全く有り得ない
力士像を作ったところに有る。
闇の力に特化した、野性的な相撲。
いわば、新免武蔵がそのまま強くなってしまった相撲である。
その朝青龍に対して、日本的な光の力を身に付けた白鵬が対峙する。
つまりこの対決と言うのは、
新免武蔵 VS 宮本武蔵 という構図なのだ。
朝青龍が問題を起こせば起こすほどに、
闇の力に対する批判は広がり、
光の力によって打倒してほしいという願いに帰結する。
されども野性的な強さに特化した面白さと言うのも
確かに存在する。
過去に類を見ない、自分に正直な相撲が
人の胸を打つことも有るのだ。
あまりに正直で、あまりに純粋な朝青龍が
アンチの数だけ愛されていたというのは
頷ける話なのである。
それほど朝青龍という存在、そしてその相撲スタイルは
魅力的なのであった。
光の闇のバトルの結果は、白鵬の8勝5敗。
これは、白鵬横綱昇進後の結果である。
勧善懲悪の世界で言えば、圧倒的に光が勝らねばならないが
闇に特化したが故の強さが存在することも
この結果から証明される結果となった。
光の強さは、日本的な強さ。
様々な問題に揺れる相撲界が、白鵬の光の力によって
何とか支えられていたというのは
歴史の必然だったのかもしれない。
剣豪:宮本武蔵と、平成の大横綱:白鵬。
辿り着いた強さの境地は実に似ている。
日本的な、人間的な強さを突き詰めて達した
光の力の到達点に、私達は心打たれた。
彼の光の強さは、大鵬への黙とうや
蒼国来に総見で胸を貸すところなどに集約されている。
だが、事実は小説よりも奇なり。
この後、白鵬は驚くべき変貌を遂げることになる。
続く。
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