元大関の十両転落が意味するもの。把瑠都休場の是非について考える。

把瑠都が休場を決めた。
怪我の具合は思った以上に悪く、相撲を取れる
状態ではないとの判断から休場という苦渋の選択に至った。
番付を下げるという、力士にとっては大きな痛手を
負いながらも、治療に専念するという判断をするには
様々な葛藤が有ったことが容易に想像できる。
だが、彼は休場を決めた。
対価を払って、体調を万全にするという選択をしたのだ。
これが普通の力士であれば問題は無い。
唯一異なるのは、把瑠都が元大関だということである。


それ故に、この決断については賛否が分かれている。
つまり、大関の名を汚してほしくない、
ということである。
地位は、相撲界に於けるカーストであり、
カーストは待遇を決定する。
相撲界に於いて、地位こそ全てであり
それ以上に物語る要素というのは何も無い。
だからこそ、誰もが地位にこだわるのだ。
土俵の神たる横綱。
神に最も近い地位こそが、大関である。
そんな大関が、一歩踏み外せば半人前にまで
身を落とす十両で登場して良いのだろうか?
これは、把瑠都だけの問題ではない。
大関という地位の尊厳すらも左右しかねない問題なのである。
このような背景を考えれば、今回の把瑠都の決定に対して
批判的な見解を示す人の意見についても理解出来ると思う。
つまり、この休場の是非を考えた時に
批判的な人は把瑠都という一力士ではなく、
大関として捉えているからこその批判なのだ。
それに対して、この休場を肯定的に受け止めているのは
休場を糧に万全な相撲を取ってほしいと考えているからであり、
大関としてではなく把瑠都本人をメインに考えてのことである。
把瑠都のファンであれば、中途半端な相撲を見たくない
という思いに至るのは自然なこと。
地位を落とすのは辛いことだが
それ以上に彼らしくない相撲を見る方が辛い。
そして何よりも、強行出場することによって
更に大きな怪我を負うリスクも内在している。
そんなことなら無理して出るよりは、休んだ方がいい。
そのような思いを抱くことに対して異論はないだろう。
賛否両論有るのは、両者が重んじる観点が異なるからである。
故にその論点は永遠に交差することは無い。
だからこそ、どちらの決断をしても批判の声は上がる。
これは仕方が無いことなのだ。
地位は力士に名誉を与えるが、
名誉の裏には巨大な責任も伴う。
把瑠都はそれだけのものを築き上げてきた力士なのである。
汚名を漱ぐには、活躍するしかない。
そう。
元大関の実力を示し、力を落とした日々を
過去のものにするしかないのだ。
泥に塗れたまま、終わるのか。
泥塗れの元大関が、観衆を黙らせるのか。
大関の地位の凄みを目の当たりにしたいと考えているのは、
恐らく私だけではないはずである。

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