停滞感の裏にある、稀代の大横綱の圧倒的な実力。白鵬をリアルタイムで見られる幸せを考える。

白鵬の連勝が止まらない。
鶴竜を相手に、不成立かと思うような
中途半端な立ち合いでも、土俵際まで持っていかれても
咄嗟に出した投げが勝負を決めてしまう。
大関でさえこの有様なのだ。
「気にすんな、お前が弱いんじゃねえ。俺が強すぎるんだ。」
そういう名言が脳裏を過る。
これは、もはや寝込みを襲っても勝てないのでは?
と思う次元であり、先日とある方が話していた、
「白鵬に勝つには、初日から安美錦と妙義龍を交互に当て続けるしかない」
という言葉がいよいよ現実味を帯びてくる。
同義語として、
「赤ん坊が生まれてすぐ泣くのは、この世に白鵬が居ることを認識するからである」
「白鵬にとってのピースサインは、『お前の命はあと2秒』の意味である」
「白鵬が戦場でコブラに噛まれた。5日間もがき苦しんだ後、コブラは死んだ」
というような言葉が挙げられる。
閑話休題。
さて最近よく思うのは、ここ数年、優勝争いが
退屈になっている、という言葉に対する違和感である。


白鵬が圧倒的で、他の力士がなかなか相手にならない。
対抗する日馬富士も、コンディションによって
星を大幅に落としてしまう。
更に言えば、下での潰し合いは必ずしも
大関陣がだらしないかと言えばそうではなく、
豪栄道や妙義龍、栃煌山といった地力のある
小結と関脇によって成されているのが実情である。
8場所連続で関脇に在位している力士など、
歴史上で長谷川くらいしか居ないのだ。
下からの突き上げは激しい。
白鵬の強さは神懸かっている。
このような状況の中で、白鵬に対抗するほど
勝ち続けるのは非常に困難なことだ。
そして何よりも、白鵬の強さである。
彼の強さは傑出している。
興行として、彼に対抗できる力士が居ないことは
確かに痛いことではある。
強過ぎることは、勝負の興味を削ぐことにも繋がる。
打ち過ぎるイチローや圧倒的過ぎるダルビッシュが居た
オリックスや日本ハムの試合は、
彼らの実力に見合った観客が入っているかと言えば
そうではなかった。
そこにはフレッシュさが無く、
また異次元の実力を持った選手が居ることに対する
畏敬の念というよりはゲームとしての面白みが無いことについて
我々はしばしば不満の声を上げてしまう。
そして、彼らがメジャーリーグに旅立った後で、
失ったものの大きさに気づかされるのである。
相撲界でも我々は、既に朝青龍が引退した時に
それを経験している。
朝青龍が居なくなり、白鵬に対抗出来るものが
誰も居なくなってしまった。
もう一人の稀代の大横綱:朝青龍という
絶対的なヒールが居てこその、白鵬という対立軸。
私達は、この稀代の横綱と同じ時間を共有していることを
幸せに思うべきであり、他の力士の力量不足を
叱咤するのはお門違いではないか?
と思うばかりである。
相撲界の停滞感を稀勢の里に打破させるには、
白鵬が強過ぎるのである。
そして、白鵬が強過ぎるが為にこの停滞感は生まれたのである。
白鵬の黄金時代は、年齢を考えればもう終焉が近いかもしれない。
その時に、我々は憎らしい程強く、対抗馬が居ないほど傑出していた
彼の有難味に気づかされるはずなのだ。
身体を痛め、全盛期の相撲が取れない白鵬に
昔の幻影を重ねて、その復活を望み、応援するのである。
応援されるということは、応援が実力を埋めるということ。
つまり、全盛期の白鵬はそこには居ないことを意味する。
失ってから大切さを認識する前に、
我々はその偉大さを感謝すべきではないだろうか?
強過ぎる白鵬に文句を言える幸せ。
そして、割に合わない期待を稀勢の里に懸ける幸せ。
そう。
群雄割拠の時代を迎えた時に、
我々は今を思い出し、絶対的な存在が居た時代を
懐かしむことになるわけである。
立ち合いに失敗してもあっさり勝ってしまう白鵬や、
聖人の如く振舞いながら、スイッチが入ると
ダークサイド全開で潰しに掛かる白鵬。
この稀代の大横綱を語り継ぐための言葉を、
私は今後のために準備しようと思う。
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停滞感の裏にある、稀代の大横綱の圧倒的な実力。白鵬をリアルタイムで見られる幸せを考える。” に対して2件のコメントがあります。

  1. 長文申し訳ない より:

    白鵬が強すぎる、それは確かにそうだ。
    白鵬の強さの有難みを認識するべきだ、それも理解できる。
    しかし勝敗以外の要素をもっと愛でるべきだと言うなら
    舞台や演芸を見るのと変わらないではないか。
    ある程度決まったシナリオの中での役者や演者の立居振舞を
    楽しむというのも一つのあり方だろうし江戸時代の相撲という
    のはおそらくそれに近い物だったのだろう。
    しかし相撲は生き残りのためにスポーツ性を
    打ち出す方向に舵を切ったはずだ。
    純粋に記録を競う競技なら絶対的強者もありだろう。
    しかし相撲は競技としてはあくまでも相対的なものだ。
    そこに切磋琢磨がなければ客は飽きてしまうのだ。
    やはり自分は白鵬を称えるより他の力士たちの奮起を見たい。
    フェデラーに引っ張られてナダルやジョコビッチが強くなった
    ように。

  2. きしめん より:

    白鵬、盤石過ぎる!
    日本人以上に日本人らしい力士であり、人間性を感じる白鵬。
    妙義龍、千代大龍、琴勇輝あたりをもっとかわいがり、遠藤、大砂嵐も、今からでもこれでもかというほどかわいがってほしい!
    白鵬と同じ宮城野部屋の十両大喜鵬、幕下宝香鵬…
    今のうちに、横綱から心・技・体をたらふく学び、力士としても人間としても、ジャンプアップを期待したい!
    宮城野部屋に所属していることを、幸せと誇りに思ってほしい!

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