日本人力士に期待するのは外国人力士に失礼なのだろうか?「ご当地力士としての日本人」という新概念を考える。

先日、丹波巡業に足を運んだ時のこと。
兵庫の秘境に、テレビでしか観たことの無い
横綱や大関が稽古に取組に精を出す。
この夢のような非日常が眼下で展開される中、
一際大きな声援を受けていたのは何と、千代栄だった。
千代栄とは九重部屋に所属する幕下力士で
近い将来関取に成ることが期待されているわけだが、
幕下力士が横綱大関に匹敵する声援を受けるのには大きな理由が有る。
そう。
彼が丹波市春日町出身だったからである。
巡業が行われた会場である愛育館には
千代栄を応援する横断幕が二枚掲げられ、
更には申し合いで彼が登場する度に
「丹波市春日町出身 千代栄」というアナウンスが流れた。
「江戸の大関よりクニの三段目」という言葉が有り、
丹波の方達にとってはそこに数多居る関取よりも
ある意味では千代栄の方が愛着が有り、
そして大事な存在なのだということを思い知らされた。
そんな期待は、関取衆の取組の間に
土俵上で地域の方からの寄せ書きを受け取り、
所信表明を行ったところからも感じたわけだが、
ここで私はふと考えた。
これは、もしかすると日本人力士に対する期待と
同じなのではないか?と。
モンゴル人力士やヨーロッパ系力士、最近では
エジプトから大砂嵐が台頭し、日本人力士には
非常に苦しい状況が続いている。
テレビ中継の中でも日本人力士に対する期待という
切り口で語られることも多いのだが、これには批判の声も大きい。
ここ最近の相撲を牽引してきたのは
外国人力士の功績によるものが大きく、
そうした意見を口にすることは彼らに失礼なのではないか?と。
また、類似した事例として稀勢の里が白鵬に勝利した際に
九州場所で発生した万歳に対する批判も挙げられる。
勿論それは分かっている。
本当に感謝している。
様々な問題が起こる中、冬の時代を支え続け、
そして今日の相撲ブームに至るまで相撲の力を示し続けたのは
彼らによるところが大きいのは間違いない。
日本人だけでは、恐らく今の人気は回復できなかっただろう。
彼らは人種の壁を超えて、相撲界に貢献してきた恩人だ。
だが日本人に対する期待を口に出すことは、
彼らに対して唾を吐き掛けることなのか。
私にはそれが分からなかった。
気持ちが整理できない状態で、日本人に対する期待を
口に出した解説者やアナウンサーが批判される様子に
どこか違和感を覚えていた。
そうか。
そういうことだったのだ。
外国人力士に対するリスペクトと、
おらが村の力士に対する期待は、全く別腹なのである。
同じ地域で生まれ育った者に対してシンパシーを抱くこと。
もしくは出身校など、非常に身近な共通項を抱く者に対して
シンパシーを抱くこと。
これは非常に自然なことだ。
相撲が日本人だけだった時代から、
高見山や小錦、曙達が一つのエッセンスとして
外国人力士というジャンルを開拓し、
朝青龍と白鵬、琴欧洲や把瑠都の登場により
日本は相撲の世界の中で一つの地域としての立ち位置に変化した。
その変化をどう受け止めればよいか、単に整理できていなかった。
シンパシーは感じているが、失礼に当たるかもしれない。
失礼という指摘も的を射ているが、気持ちに嘘は付けない。
しかし、差別とか失礼という言葉に対しては
どうしても及び腰になってしまう。
だからこの手の話題になると居心地が悪い想いを抱き続けてきた。
結果として、そういう本音を語れる仲間同士だけで
自分の気持ちを吐露してきたように思う。
だが、丹波場所を経て分かった。
日本人力士は、今やご当地力士ということなのである。
勿論私はご当地力士としての日本人に対する期待を是認したからと言って
外国人力士に対して失礼に当たる行為を容認したわけではない。
ただ、日本人力士に対してシンパシーを抱くこと。
それは自然なことであり、否定されることではないということが
分かったというだけの話なのだ。
2014年の相撲界に於いて、日本は地域の一つである。
そしてそれはモンゴルも、ブルガリアも、エジプトも同じことだ。
共通項を持つ力士に対して声援を送る。
そういう自然なことを自然に行おうと、私は思ったわけである。
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