天覧相撲で観られなかった「コール」。彼らは何故コールをしなかったのか。大相撲の応援文化を改めて考える。

中日の天覧相撲。
幕内後半1時間の観戦でありながら、
国技館の空気はいつものそれとは全く異なるそれだった。
普段以上の力を出す力士。
気合が空回りして上滑りする力士。
変わらず淡々と自分の相撲を取る力士。
この非日常が力士に与える影響は絶大で、
あっけなく勝負が決まるところも含めて
非常に興味深い光景だった。
天覧相撲を最後に行ったのが例の騒動の前なのだから、
場馴れしている者は誰も居ない。
ここで一つ興味深かったのが、
張り手やカチ上げ、ダメ押しなど行儀の悪さを
見せる力士が誰も居なかったことである。
このことから分かるのは、
行儀の悪さというのはつい出てしまうのではなく、
意識的に出しているということだ。
そう考えると彼らは相手を選び、状況を選び、
荒い相撲を取っているということが分かる。
誰に荒い相撲を取り、誰にはオーソドックスで臨むのか。
こんなポイントに注視して見るだけで
相撲はもっと面白くなるのではないかと思う。
誰か統計を取ってくださる方が居れば、
是非お教えいただきたいところである。
だが、非日常が大きく影響したのは力士だけではなかった。
そう。
観客である。
観戦している間は特に意識しなかったのだが、
おとなしいというか、行儀が良いというか、
普段とは少し異なると感じた。
何だろう。
この違和感は。
少し考えてみて、その後気付いた。
違和感の正体。
それは、コールが無かったことである。
観客にとっても天覧相撲は非日常。
天皇皇后両陛下が居ると、どこか余所行きにになるのは
仕方が無いことである。
何しろ、力士ですら余所行きになるのだから。
余所行きになる時、我々はどのように振る舞うだろうか?
転校初日の学校や、異動したての部署、
初めての公園に足を運んだ時のことを思い出してほしい。
我々が最初に「いかに嫌われないようにするか」を
考えることだろう。
だからこそ、力士は荒い相撲を自粛した。
これを観客に当てはめると、意外な事実が浮かび上がる。
彼らはコールすることについて、行儀が悪い自覚が有るのだ。
コールの是非をここでは論じないが、
もしそれを否定するとしたら、彼らは何故コールをしなかったのか
全く説明がつかない。
彼らにとってそれが自然なことであれば、
天覧相撲でもコールという行動に出ているはずだった。
オリンピックおじさんが普段と変わらぬ
振る舞いをしていたのとは真逆である。
国技館に行くと特に思うことだが、
相撲というのは競技である以前に日本文化である。
私はよく「なんで?」が多ければ多いほど
文化が深いことを証明している、という話をするのだが、
「なんで?」が桁違いに多いことによって
大相撲は独特の雰囲気を醸し出している。
一方で武道や伝統芸能の観戦に於いて、
集団応援に違和感が残ることは否めないと感じる方も多い。
コールが常態化する中で、私はコールに対する拒否反応が
右肩上がりに増していることを感じている。。
両者の溝が深まる中、
「実は行儀が悪い意識が有る中でコールをしている」
ということが分かった今、コールに対する風当たりは
残念ながら増すことになるだろう。
だからこそ、これを機にコールする側の方は
これを機に何故コールするのか、
拒否反応が有る中自分を貫く熱い動機を是非語って欲しいと思う。
現状ではコールに対するイメージが大変悪いため、
同じ相撲を愛する気持ちを抱きながらも
反目し合うという皮肉な結果を招くことになる。
私は、これは一つの機会ではないかと思う。
分かって欲しいのに分かってくれない。
理解してくれそうにもないから、自分のやり方を貫く。
こういう状態から脱することが出来るのではないかと思うのだ。
逆に、罪悪感が有る中でコールをしている方は、
コール自体の是非について向き合う機会でもあると思う。
棚上げされた問題に向き合うチャンスはそう無い。
だから、ご意見を頂ければ幸いである。
◇お知らせ◇
幕下相撲の知られざる世界のFacebookページはこちら。
限定情報も配信しています。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。(スパム対策)