変化はカッコ悪いが、敗れるのはもっとカッコ悪い。鶴竜稀勢の里の論点は正当性ではなく「共感を得られるか、否か」である。

やはり、なのか、あろうことに、なのか。
稀勢の里が鶴竜に敗れてしまった。
だが今回の負けは、少し毛色が異なる。変化を1度ならず2度までも選択した鶴竜に敗れた、という事実に対してどう向き合うか、である。
最初にハッキリさせておきたいのは、変化は喰らう力士が悪いということだ。変化が変化でしかないのは、結局変化だけでは勝てないからだ。普段から勝つための相撲の基礎として、いわゆる普通の取口を稽古場で練習する。基礎が有るからこそ、たまに試みる変化が大きな意味を持つ。つまり、変化は戦術としてアリだと私は思っている。
だからこそ変化に対しても準備をすべきだし、喰うのであればそれは準備が足りなかったと言わざるを得ない。私が変化に対して最近「喰う力士が悪い」と言っているのはそういう理由からである。
相撲は競技である以前にエンターテイメントだ。単に競技としてポイントを競うだけでは、観客は満足しない。相撲の醍醐味は肉体のぶつかり合いであり、技の競い合いだ。更に言えば弱さを克服するための、成長過程のリアリティショーである。そうした醍醐味が、変化には無いのである。
横に飛ぶ思い切りの良さ。
相手を出し抜くクレバーさ。
そういう言い方も有るかもしれない。
だが、そこに相撲の未来は有るのだろうか。優勝決定戦が毎回変化で決まる大相撲など、果たして誰が見るというのだろうか。そのクレバーさを称え、それを理解できない者を愚か者として仕立て上げても、大半は愚か者な訳である。
変化で決まった一番、特に格上力士が用いた場合、私がよく言うのは「変化を喰う奴が悪い。でも、変化する奴は結局共感を得られない」ということである。だからこそ、相撲に限らずあらゆるスポーツで言えるのだが、観客の共感を得る形で結果を残さねばならない、と思うのだ。
変化=悪ではなく、その人が変化した時に共感を得られるのか、ということを問い質さねばならない。だからこそ、ベテランで業師の安美錦が変化する時と横綱のそれとでは受け止め方が異なるのである。
鶴竜稀勢の里戦を振り返ると、まず横綱が2回変化したという時点で論外だ。そしてもう一つ、今回の変化は優勝争い単独トップという状況の元、3連敗している相手に対して横綱という立場でありながら選択した、ということが挙げられる。その上、鶴竜の変化は結局、稀勢の里を出し抜くには至らなかった。
変化という選択肢が横綱としてカッコ悪い上に、変化に徹することさえ出来なかった。エンターテイメントとしては最悪という言葉以外の言葉が見当たらないものか、少し考えてみたいほどだ。だが更にカッコ悪いのは、そのカッコ悪い選択に屈してしまった稀勢の里と言わざるを得ないのである。
変化は喰らう奴が悪い。しかし、対戦相手からも自分からも逃げて、目先の勝利を掴むために小手先の手段として変化を選択し、しかも「綱の重責」という大義名分を結果的に一つの隠れ蓑にしてしまうのは、私には我慢ならない。
もう一度言うが、変化は選択肢としては問題ない。だが、そこには必ず覚悟が伴うのだ。その覚悟とはつまり、「自分が共感されないかもしれない」ことに対するものである。
一つの観方として変化に共感する人も居るかもしれないが、その見方は強制出来るものではない。先の事情から、そもそも変化は共感を大変得にくいものだということを忘れてはいけない。その上で、それでもやり抜く覚悟が必要なのである。
そういう鶴竜に対して誰がどのような言葉を用いて擁護しようとも、今回の論点は正当性ではなく「共感するか、否か」なので価値観の問題と言わざるを得ない。今日の決断を評価するように訴えても、価値観を根底から覆すような論理を展開せねばならない。それは極めて難しいことだ。
鶴竜にとっての不幸は、実は照ノ富士の負傷と言えるのかもしれない。明日の内容が目覚ましければ、多少のマイナスは挽回できたのかもしれない。ましてや照ノ富士という強大なライバルを打倒したならば、「ええじゃないか」に引き寄せやすいことも事実である。「終わり良ければ総て良し」ということだ。しかしその挽回のチャンスが無いので、仮に優勝したとすれば変化のことが脳裏を過りやすい。
もしこれを読んでいる方で、明日国技館に行かれる方は、くれぐれも鶴竜にブーイングだけはしないでほしい。ファンとして力士に求めるのであれば、ファンとして大相撲を汚してはならないからである。
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変化はカッコ悪いが、敗れるのはもっとカッコ悪い。鶴竜稀勢の里の論点は正当性ではなく「共感を得られるか、否か」である。” に対して1件のコメントがあります。

  1. masagoro より:

    初めて、投稿します。
    結局ルールで禁止されてないこと、逆に言えば許されてることをするのは、各力士の自由だと思います。それを選択するのは、その力士の価値観、プライド、人生観によるものだと思います。その結果は本人が甘んじて受ければ、いいことです。白鵬も朝青龍との決定戦で、変化して一瞬でかちましたね。あれも終わってみれば、35回の一回ですね。
    それはさておき、ひとつ気になったのは仕切り時の手つきです。一度目は、手つき不十分でやり直しでしたが、二度目は成立しました。ビデオで繰返して見ましたが、二度目も不十分、むしろ二度目の方が不十分のように見えました。行司は一度目は、両者の手つきを凝視してました。二度目はそうでもなかったような。そもそも今の手つきの基準はどうなってるんでしょうか?厳しいころは、軽く土俵をこするくらいは、ちょん立ちとか言って不成立になってましたよね。今、その基準を当てはめると、ほとんどの立ちあいは、不成立になるんじゃないかと思います。その辺もはっきりして欲しいと思います。

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