稀勢の里に見えた「二つの限界」。理想に邁進すべきか、勝利の為に全てを捨てるべきか。

稀勢の里が白鵬に完敗した。
白鵬の体が流れて一瞬チャンスが有ったがそこに付け入れず、体勢を整えた白鵬は盤石の形で稀勢の里を崩した一番だった。取組前の会場のテンションは最高潮に達したが、終わってみると白鵬が強く稀勢の里が弱いという誰もが知っている事実を再認識するような一番だった。
11勝がコンスタントに残せる稀勢の里は、数字の面からも歴代大関でもかなり優秀な部類に入ることは間違いない。そして、現在の大相撲の中では「日本出身力士」として抜けた存在であることも間違いない。ただその辺のおじさんにまで「精神的に弱い」と指摘されるほど、不甲斐ない相撲が続いているのも間違いない。
15日の中で期待を抱かせる取組を見せて、15日の中で奈落に落とす。取りこぼしが多いという意味での不甲斐なさも相変わらずなのだが、最近深刻なのはモンゴル4強(という言葉を敢えて使う)との差である。
稀勢の里が期待を抱かせているのは安定した成績を残せることもさることながら、モンゴル4強にも対抗できる相撲が取れるからだった。鶴竜との相性が良く、一時期日馬富士に連勝を重ねた。更には白鵬を相手にも好勝負出来ていたことこそが、稀勢の里に希望を見出す主たる要因だったのである。
だが、その大前提がここ数場所で崩れてきている。
照ノ富士に力負けする。
鶴竜にも星を落とす。
日馬富士の当たりをまともに喰う。
白鵬に至っては論外だ。
なぜこの力士が11勝出来るのか。実は計算し直したら9勝くらいしかしていないのではないかと錯覚するほどだが、11勝は出来ている。それでも4強を相手に星をもぎ取れるから何とか11勝に踏みとどまっているのが実情だろう。
しかし考えてみると、白鵬と好勝負をしていたのは2013年の数場所だけのことだ。全勝対決の場所から綱取り失敗、そして万歳の一番。この一連の流れに於いてはかなり拮抗していたのは間違いない。
だが、この2年で白鵬は衰えるどころかその独自の相撲を更に改良して、白鵬スタイルとも言える次世代のスタンダードにまで昇華させつつある。改善が進まぬ稀勢の里との差は絶望的なほど付いているのが現状で、稀勢の里の打倒には白鵬スタイルさえも不要な有様である。
モンゴル4強に有って、稀勢の里に無いものは何か。それは勝利に対する貪欲さではないかと思う。後ろ指を指されても、この一番は取るという覚悟。4人のモンゴル人達は勝負の一番で変化も打撃も、あらゆる選択肢を取る。当然取組後に激しい非難に晒されるが、手元には勝利が残る。
稀勢の里はそれでも終盤戦まで優勝を争える位置に居る。1人か2人は倒すことが出来ても、ここ一番と碧山栃煌山の差で気が付くと11勝になっている。
稀勢の里の姿勢は美しいと思う。いわゆる相撲の精神を体現しているのだから。ただ理想を追求しながらも、その理想を体現出来ていないのが現状だ。脇甘と腰高が是正できていないのはその象徴である。
今稀勢の里は限界に達しているのではないかと思う。理想の相撲を取り続けられないという限界と、モンゴル4強の覚悟に屈するという二つの限界だ。このまま11勝を重ねながら、徐々に「個性派大関」という位置付けに落ち着いていくしか道は無いのだろうか。
残された二つの道。
理想を突き詰める道と、モンゴル4強の領域に足を踏み入れる道だ。
どちらが観たいかと言えば当然前者である。稀勢の里の美しさは愚直なまでに、一本気に理想を追い求める姿に有るからだ。彼が悲劇的な敗北を重ねながらも館内で圧倒的な声援を集めるのは、そういう理由だ。
だが、この数年理想を体現出来ない姿を目撃し続けてきた。肝心なところで弱さが出てしまうのは、理想に押しつぶされたが故のことである。
考えてみると鶴竜も日馬富士も自身の欠点が露呈することは有る。照ノ富士も守り切れずに敗れることも有る。それでも彼らが優勝出来るのは、ここ一番での差に他ならない。稀勢の里にそれが出来れば、好調な場所であれば必ず勝負になる。
ただ、そんな稀勢の里を観たいだろうか。
そんな力士は稀勢の里とは呼ばない。
もはや別の誰かである。
美しく勝つ稀勢の里を観たいが、美しさに殉じる稀勢の里を観るのは辛いことだ。だが、理想を捨てる稀勢の里を観ることもまた、辛いことだ。
ここから先は稀勢の里が決めることだ。恐らく私は稀勢の里が取る道は一つしかないと思う。そしてそれは、苦難の道なのである。
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