「嘉風に出来るのだから、君にも出来る」訳ではない快進撃。高齢力士が努力を重ねる難しさとは?

1995年のヒットソング「スキャットマン」を覚えているだろうか。
ちょっと変わったヒゲのおじさんが、なんか早口でまくしたててる。でもそれはそれで心地いい。繰り返し聞いてみるとクセになる。当時のテレビ番組ではこの変わったおじさんが音楽番組では数多く取り上げられた。52歳でメジャーデビューし、「スキャットマン」は全世界でスマッシュヒットした。
だが、実はこのおじさんは吃音症という困難を抱えており、逆にそれを自らのスタイルにしたというサイドストーリーが有った。「スキャットマン」の中で彼はこう歌った。
“If the Scatman can do it so can you”
「スキャットマンが出来るのだから、君にも出来る」と言うのだ。
恐らくこれは、このおじさんにしか作れない歌詞だと思う。他の誰が書いても、その言葉には真実味が生まれない。言葉とは何を言うかが重要ではなく、誰が言うかが重要なのである。
そしてその歌詞を、相撲界で重ねるような活躍を見せている力士が居る。
33歳という高齢。特色を活かしての、まさかの大ブレイク。その言葉は「嘉風が出来るのだから」と置き換えられそうに思える。
3場所連続2桁勝利と九州場所での勝ち越しで新関脇の座を掴み取り、毎場所のように横綱大関を薙ぎ倒す。攻めに攻めて今日のベストを尽くす相撲は、誰の心にも響くものである。館内で一二を争う程声援を集めるのは当然のことだ。
期待が高まる中で、遂に嘉風本人も「大関を目指す」と明言するようになった。一年前に聞いたら嘉風が気でも触れたのではないかと誰しも思うところだろう。
だが、今は違う。
嘉風の相撲に心躍らせる観客が居る。そして、嘉風の相撲に期待する嘉風自身が居る。たった一年で、嘉風は観客の意識を変えてみせたのだ。今までこのような事例を私は知らない。少なくとも相撲界には無かった。だからこそ嘉風の新関脇昇進はニュースなのである。
さて、嘉風の今の素晴らしさを称える文章は数多有るが、そうした中でよく目にするのがここ最近の意識改革のことである。「このまま現状維持が出来ればいい」という想いを振り払い、貪欲に強さを追い求めるようになったという話は有名だ。
周囲の意見を謙虚に受け止め、ポジティブな明日の姿を思い描く。考え方一つで行動も変わる。自分の課題を分析して、効果的な対策を立案する。そして、その対策案を土俵の上で表現する。嘉風は今、こうしたサイクルを理想的な形で回せているのである。
嘉風が出来るのだから、自分にも出来る。そう思った方が居たとしたら、考えて欲しい。現在の自分と、将来なりたい役職に必要な要素を。そして、周囲のライバル達と自分との差を。
例えばここに中堅サラリーマン:Aさんが居る。AさんはIT企業に務めているのだが、将来的に部長になりたいと仮定する。
彼には管理職の経験が有る。そして、学習塾勤務という経験を土台にして新人教育を担当し続けてきたキャリアが有る。更にはビジネスシーンで英語を使ってきたという特色も有る。IT関連では、長年ネットワークに携わってきた経験を持っている。
これだけ見るとAさんにはAさんのフィールドが有り、強みを活かすことも出来ることが分かる。得意な分野でこれからも会社に貢献することは出来るとは思う。
だがこれが、部長になりたいという目標になると話は別だ。
Aさんには管理職の経験が有るが、同年代で管理職を歴任している人材はごまんと居る。この時点でAさんは後れを取っている。更には、部署全体を統括する上では社内的なキャリアを重ねる必要も有るのだが、当然これについてもAさんより優れている人材は多い。
既に周囲と差が開いている中で目覚ましい結果を残しながら、周囲よりも秀でたスキルを身に付ける。これがどれだけ難しいことかは、サラリーマンであれば誰しも理解できると思う。そしてそれを1年という短期間で実現したのが、嘉風という力士なのである。
嘉風のスタイルで勝つには、先手を取って相手を崩し、絶えず攻め続ける必要が有る。更には立合いから攻めを受けても動じずに、更に攻めに転じられる体の強さと、相手に捕まらぬ間合いで立ち回り続ける必要も有る。嘉風は今これらが出来ている。1年前は出来ていなかったにも関わらず、だ。
今の相撲を実現するために、嘉風は相当な努力をしたはずだ。意識改革で今の相撲を構築したことは当然素晴らしいと思う。だが、真の凄さはそこではない。
そう。
33歳という年齢だと、我武者羅に努力することさえも許されないのだ。
体力の限界で土俵を去る力士が多いのが、33歳という年齢だ。勤続疲労は体を蝕み、身体の至る所に爆弾を抱えるようになる。二ヶ月置きに15日連続で相撲を取り続け、更には年間60日巡業で全国を回る。強い負荷を掛けてトレーニングすることはおろか、リフレッシュすることさえもままならない。
これが若ければまだいい。多少の無理に体が応えてくれるからだ。稽古をご覧になった経験が有る方は知っていると思うが、かわいがりを受けるのは基本的に若手だ。高砂部屋の朝天舞という34歳の幕下力士が最近までそれを受けていたのはあくまでも例外である。
故に、効率的且つ効果的に努力せねばならない。当然上位の力士の中には若手も居る。彼らは遮二無二努力することでパワーアップし続ける中、努力することさえも制限される嘉風は、それでも闘わねばならない。
嘉風の新関脇昇進がいかに大変なことかお分かりいただけたと思う。そしてそれが、到底真似出来ないものであることも。
自己啓発本になりそうな、一見誰もが可能ではないか?と思うような、しかし紐解くと実はそれほど単純ではない嘉風の快進撃。中堅サラリーマンの皆さん、嘉風のように意識改革して上を目指し、現実とのギャップに絶望しながらその凄さを称えようではありませんか。
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