琴奨菊の優勝は、全ての相撲ファンを救った。外国人力士への敬意と「日本出身力士」への期待の狭間で揺れた相撲ファンを解放した歴史的意義とは?

琴奨菊、初優勝。
「日本出身力士」として10年ぶり。栃東が優勝したあの時、まさか2016年まで優勝が無いことを誰が想像しただろうか。
遠ざかれば遠ざかる度に掛かる重圧。
叱咤と、叱咤に見せかけた非難。
強過ぎるモンゴル人力士。
「日本出身力士」が闘う相手は、あまりに多過ぎた。
優勝争いの土俵にすら加われない。大関たちはクンロクとカド番を繰り返し、その地位を守ることに追われた。たまの優勝争いでは過熱する期待に押し潰され、目を覆う光景が広がった。
今場所もそうではないのか。期待するから裏切られた時に辛いのだとしたら、最初から期待しない。でも、心のどこかでは期待してしまう。そういうメンタリティーが、この10年で見ている側にも植えつけさせられていた。
こうした経緯が有るからこそ、3横綱との相撲を終えた後の、いや、豊ノ島に敗れた後の琴奨菊は本当に素晴らしかった。かつてどの「日本出身力士」も乗り越えられなかった自分との闘いに勝ち、そして更に、目前の相手にも勝ってみせたのだから。遠ざかれば遠ざかるほどに増える、土俵以外の見えない敵。
琴奨菊の優勝に価値が有るのは、そのためだ。
そしてもう一つ付け加えると、琴奨菊が救ったのは「日本出身力士」だけではない。
そう。
全ての相撲ファンを救ったのではないかと思うのだ。
ここ数年「日本出身力士」という、実に奇妙な言葉が独り歩きするようになった。
日本人力士に対する期待は、外国人力士が素晴らしいからこそ横綱という次元からいつの間にか優勝というところまで下がってきていた。そして旭天鵬が優勝することによって日本人力士という言葉が「日本出身力士」という言葉に置き換わっていた。
その期待を口にすることは、ここまで相撲界を長きに亘って支えてきた外国人力士に対して失礼なのではないか?全ての力士に対して平等であるべきだ。確かにその通りである。ここまで日本人力士が担ってきた、大相撲の顔としての責任や強さを体現してきたのは、外国人力士達だったのだから。
しかし叫ばれるのは、「日本出身力士」に対する期待。
怒る方が居るのも致し方ないことだった。
だが、それでも「日本出身力士」に期待することもまた、致し方ないことだった。外国人力士が素晴らしい中で、郷土出身力士としての「日本出身力士」に期待するのは自然なことだ。オリンピックで日本人を応援するが如く、自国の代表選手として「日本出身力士」に感情移入すること。それは誰に批判されようとも感じることである。
「日本出身力士」が優勝しないからこそ、そういう声は日増しに強まっていった。そしてそのことが、外国人力士のファンも「日本出身力士」のファンも蝕んでいった訳だ。だからこそ、この優勝は「日本出身力士」のファンはおろか、外国人力士ファンも救ったのではないかと私は思うのである。
これでもう、不毛な議論は当面不要なのだ。外国人とか「日本出身力士」とか、そういう議論を呼ぶような部分に目を向けなくても済むのだ。これがどれだけ幸せなことか。
解放された今だからわかる。
琴奨菊の優勝は、全ての相撲ファンを救った。
2016年の初場所は、歴史が動いた場所だったのである。
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琴奨菊の優勝は、全ての相撲ファンを救った。外国人力士への敬意と「日本出身力士」への期待の狭間で揺れた相撲ファンを解放した歴史的意義とは?” に対して1件のコメントがあります。

  1. じょにだん より:

    私が感じていた、上手くまとめることができなかったもやもやしていた気持ちが晴れました。
    とても読みやすく、わかりやすく、それでいて相撲愛にあふれた素晴らしいブログです。
    見つけることができてよかったです。
    これからも拝見させていただきます。

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