甲子園で女子マネが制止された問題を、相撲ファンの観点から考える。

甲子園で女子マネージャーがグラウンドに立つことを制止されたことが話題になっている。
時代錯誤。
男女平等。
女性差別。
このような強い言葉がこのニュースを賑わせている。確かにそういう観点も有る。今の時代には無い価値観で甲子園という競技は成り立っているのだから。そして、前時代的な不合理こそが歪を産み出しているのが最近の甲子園とも言える。
行き過ぎた連投や先発投手の球数問題など、甲子園という世界は不合理と不条理で満ち溢れている。これらを変えなければならないのは確かだ。歪んだ何かによって成立していることは確かなのだから。そして、その歪んだ何かが観客側に違和感を覚えさせていることも事実なのである。
何故相撲を専門として取り扱っている当ブログがこの問題を取り上げたかと言えば、かつて相撲でも同様の議論が発生したからである。女性の大阪府知事が土俵に上がるということで議論が起こり、結局その話は流れたことが有った。だがこの時も府知事の意向に賛同し、それに反発する声を差別と斬り捨てる方も一定数居たのだ。
これは、他山の石というだけの話ではない。同じ議論がまた、相撲界でも起き得るのではないかと思うのである。そうした時に、我々は差別や時代錯誤という強い意見に対してどのように向き合うべきなのだろうか。
ここから先は、あくまでも個人的な意見である。もし男女平等という観点で賛同しない意見を頭から否定される方は、この後の私の意見を読まずにお帰り頂くことをお勧めしたい。
あくまでもここから先は、私見である。私は女子マネージャーがグラウンドに立つことについて、現時点では控えるべきであると考えている。一言で言えば、甲子園は理屈だけで成立している場ではないからだ。
甲子園を全てを理屈で通したと仮定しよう。
すると、甲子園には様々な不合理や不平等が存在している。
神奈川県代表は200校近く有るのに、高知代表は20校程度で争われている。甲子園は真夏に体感温度45度の中、争われている。そして、各県の代表の中には、県外からの選手が数多く存在している。
こうした問題は継続的に存在していながら、根本的な問題の是正には誰も着手していない。だが、女子マネージャーの話になると、声高に変革を訴える。これは一体何故なのか。
要するにそこに感情移入するか、否かということである。
例えば暑い甲子園で競われることの危険性を考えた時に、大阪ドームで開催されることを代替案として提示されたとしよう。果たしてそんな高校野球選手権は楽しいだろうか。結局観たいのは、炎天下の中で全力を尽くして闘い、勝ち負けを競い合う姿なのではないだろうか。
例えば神奈川県代表が200校近くで競われていることを考慮して、四国で1校を競う形に変更したらどうだろうか。明徳義塾高校だけが本大会に出場したとしたら、他の3県の方は代表不在の中でどのように感じるのだろうか。
理屈として考えたとしたら、上記の案は正しいのかもしれない。ただ、それはあくまでも理屈の話である。理屈は常に正しい。ただ、理屈はいつでも感情を納得させるものではないのだ。理屈はあくまでも、感情を納得させるための手段だ。もし納得させられない理屈が有るのだとすれば、それは意味の無いものである。
そして文化の中には、数々の不合理と不条理が存在しているのである。私は文化とは不合理と不条理の数が多ければ多いほど、その深みが有ると考えている。何故そのような不条理なルールが存在するかと言えば、結局誰も説明できない。大抵の場合「そういうものだ」というところに帰結する。
相撲に関しても「そういうものだ」が多く存在している。例えば丁髷などその最たるものだ。投げの打ち合いを考慮した時、髷が先に付いたら負けである。だとしたら、髷など無い方が良いに決まっている。競技としての均衡を考えれば、誰もがそう考える。
だが大相撲が髷を捨てたら、それは大相撲ではないのである。
何故このような主張が出てこないかと言えば、そこに大相撲の大相撲たるところが有ると誰もが共有しているからだ。それは理屈ではない。理屈では片付けられない「何か」が有り、その「何か」の中に大相撲を見ているのである。
勿論私は伝統的に継続されてきたことに対して全てを変えるなというつもりは無い。ただ、変えるならば変えるなりの議論が必要だと言いたいのである。文化を変えるのであればそれなりの理由と理屈が必要であり、それらに対してファンが納得するというプロセスが必要不可欠だと思うのだ。
だが、差別というフレーズが出てくると、どういう訳か議論ではなく感情論で終わらせようとする方が後を絶たない。伝統的に変更されない重要事項について日本では本来議論を進める方向で話が進められるのに、こういうデリケートなことに関しては議論というフェーズを飛び越えてすぐに決定させようとする方が居る。それも、相当な数居るのである。
これは一体何故なのだろうか。
「そういうものだ」で済ませろとは言わない。伝統の中にも変えなければならないことは有る。伝統と言えど、長い歴史の中で変化を重ねている。ならば、変化するために少し時間を掛けてもいいのではないか。
不条理や不合理の中に文化が有る。もう少し、話し合う余裕が必要ではないかと思うのだ。最後に新日本プロレスの内藤哲也選手の言葉を引用して終わりたい。
「トランキーロ、焦んなよ!」
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甲子園で女子マネが制止された問題を、相撲ファンの観点から考える。” に対して1件のコメントがあります。

  1. wittgenstein24652 より:

    「観る側の視点」と「競技する者の視点」、更に「運営する者の視点」があるように思います。
    この中で、高校野球となると、「競技する者の視点」は発言力が弱いでしょうね。
    高校野球に関しては、「観る側」は沈黙すべきだと思っています。
    非常に嫌な言い方になりますが、「観る側」は金を出していないですから。
    貴兄の相撲に対する情熱と労力、少なからぬ出費には頭が下がります。「観る側」が発言するには、そのくらいのものが必要なのではないでしょうか。

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