今、白鵬をどう捉えるべきなのか。

横綱:白鵬。
大相撲の顔にして第一人者。そして、大相撲の信頼が揺らいだあの時期に、大相撲を守り抜いた大恩人。それが、モンゴル出身のこの稀代の大横綱だ。
大き過ぎる白鵬。それ故に永くアンタッチャブルな存在であり続けた。良くも悪くも白鵬の顔色を伺っていたのではないかと思う。気が付くと白鵬の相撲内容は変質していたが、不幸にもそのことに向き合うことは出来なかった。
荒れた相撲内容が目立つようになっても、止める者は無かった。そして、2年前に審判部批判という事件が起こってしまった。思えばあれが分岐点だった。
あの時はまだ、アンタッチャブルな存在だった。だからこそ私は、すぐに謝罪すれば解決可能だと論じた。あの頃の白鵬に戻って欲しいからこそ、審判部を批判する白鵬に厳しい論調になっていたのは間違いない。
だが白鵬は恩人としての白鵬ではなく、別の白鵬で居ることを選択した。
時にカチ上げを振るい、流血も辞さず、ダメ押しが出ることも一度や二度ではない。千代鳳や琴勇輝のルーティーンを批判したことも有った。
あれから2年。
改めて考えてみた。
白鵬に対して、どのように接すれば良いのだろうか。言動や土俵態度について、どう捉えれば良いのだろうか。
今の白鵬については、捉え方が二極化しているように思う。白鵬を徹底して支持する方と、徹底して批判する方である。
支持する方に多いのは、言い逃れが出来ないような行為に至るまで肯定すること。逆に批判する方に多いのが、素晴らしい行動さえも穿った見方で否定してしまうことである。
白鵬を論じるのは、大変危険なことだ。白鵬批判でもしようものなら支持者からは厳しい批判に晒され、アンチ白鵬からは祭り上げられる。そう。白鵬を批判することは何も産み出さないのである。
私は白鵬がカジュアルに語られる存在であるべきだと考えてきた。あの頃白鵬に向き合えなかったことが、今の白鵬を産み出したと感じているからだ。この2年で悪い部分には向き合えるようにはなったと思う。悪いものは悪いのだから、それは良いことだ。
ただ、それだけではダメなのだ。
批判だけのカジュアル化こそが白鵬ファンの不満を募らせ、白鵬ファンの白鵬化を招いているのではないかと思うのである。
今の白鵬は物議を醸す言動も多いが、一方で素晴らしい行動も多く行っている。例えば、相撲の底辺拡大のために中学生以下の全国大会である「白鵬杯」を毎年開催しているし、多くの力士が欠場する中で誰よりも積極的に巡業にも参加している。
こうした姿勢は白鵬ファンからは熱烈に支持されているが、普段白鵬を批判している方はどうだろうか。白鵬は、善悪の二元論で語ることが出来ない存在だ。誰にもできない形で相撲界に貢献しながら、批判を受けかねない行動も取っている。
人の行動は悪意を持って解釈すれば、いくらでも悪く受け止めることも出来る。白鵬の素晴らしい行動も、一代年寄としての特例を認めさせるためだとする人も少なくはない。解釈というのはその人の裁量にゆだねられるものだ。その裁量を少しフラットに寄せると、白鵬の捉え方が変わるのではないかと思うのだ。
良いものは良い。
悪いものは悪い。
良いものを悪い、悪いものを良いと捉えるバイアスを排除すること。2017年、まずは私がこれを行っていこうと思う。
最後に、今一つ残念なことが有る。それは、白鵬の物議を醸す行為に対して前ほど批判が起きないことだ。それでも私は、以前の白鵬を期待している。恩人だからこそ、望まずにはいられないのである。
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