白鵬休場。衰えより強さの記憶が勝る凄みを考える。

白鵬が2敗目を喫した。
そして、5日目から休場することになった。
その決定は驚きをもって受け止められている。
8年間休まずに本場所に立ち続けてきた大横綱が、およそ1年半で3回も休場しているのだから。そして、この10年あまりの横綱在位の中で優勝も準優勝も無いのは8度目だが、その5回が今連続して発生しているのだから、驚くのは当然のことだ。
この受け止め方は、二分されているといっていいと思う。強かった頃の白鵬に戻ってきてほしいという思いが先行する人と、最近の白鵬を衰えたと捉える人である。
しかし人は何故、一時代を築いた大人物の変化を衰えと捉えたがるのだろうか。それは一時代の中に閉塞感を覚え、時代に変化を求めるからであろう。
人は、新しい時代を歓迎する。だが一方で、新しい時代が続くと新しさに慣れてしまう。その新しさはすぐに陳腐化し、更なる変化を求めることになる。
人物が素晴らしくても、相撲内容が圧倒的でも、素晴らしさが続くとそれは素晴らしいとは感じなくなる。素晴らしさを理屈で認めていても、先に立つのは素晴らしさに押されて変化しないことに対する不満である。
白鵬は、確かに素晴らしい。土俵上でも、土俵を降りてもその評価は変わらない。だが素晴らしさに慣れたために、その素晴らしさに目を向けにくいことも事実だ。
白鵬が衰えたかどうかは、分からない。成績が高い次元で低下するのを見て、過去にも衰えを指摘する声は有った。だが、白鵬は今の白鵬に合った相撲を取ることによって新たな全盛期を迎えるに至った。
そもそも衰えを口にするのは力士に失礼なことかもしれない。衰えたと指摘することは、一体何を産むというのか。相撲に対する興味を盛り上げるために、潜在的に衰えを望んでいるとしたらそれは大変なことだ。日本人横綱の誕生や優勝を望む方に多く見られた特徴でもあるので、尚更その見方に対する反発は芽生えてしまう。
ただ、私が白鵬に対して衰えを口にしないのは、失礼だということを心得ているからという側面に加えてもう一つの理由がある。そう。そもそも衰えた実感が無いからだ。
ここ10年。
相撲に興味を持ってから7年。
白鵬は、強い横綱であり続けた。
1年近く優勝がなく、勝負どころで敗れる白鵬というのは記憶にない。立ち合いから激しい張り合い、その後互いに手が出せずに見合うようなシーンは、最近少しずつ出てきた展開であるように思う。確かに、変化はしている。とはいえ、横綱としては合格点だ。
何より、白鵬と衰えが結びつかないのである。新たな時代を望んでも、ここまで時代は変わらなかった。思えば、最近はその繰り返しだった。失礼を承知でその結論に結びつけても、単なる失礼で終わってきた。
気が付けば白鵬はまた優勝を重ねるような気がしてならない。素晴らしい相撲と物議を醸す相撲を取り続け、心をかき乱し続ける予感しかしない。そこには同情は無い。同情するには、強い記憶が鮮明過ぎるのである。
少し前とは確かに異なる。
だが頑張れ、と言うにはまだまだ強い。
休場の先に何があるのか。
今の私の興味は、まだそこにある。
強い記憶が失われた時、白鵬に対する受け止め方は変わると私は思う。しかし、数字で見たときにこれほどの変化をしながらもまだ同情に触れない白鵬は、やはり白鵬なのだ。
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