稀勢の里よ、見せてくれ。満身創痍で土俵に立つ意味を。

復帰するのは、5月だろうか。
それとも、7月だろうか。
場合によっては、9月ということさえもある。
いずれにしても、重症であることは間違いない。時間を掛けて治すしかない。怪我を克服するという、新たな試練の幕開けになる。そう考えたからこそ、私は昨日の記事のタイトルを「這い上がれ、稀勢の里。」とした。
だから、今日のニュースは寝耳に水と言って良いものだった。そう。稀勢の里は、強行出場を決断したのである。
さすがにそれは無理だろう。
危険過ぎる。
第一、相撲が取れるとは思えなかった。全治数ヶ月が疑われる怪我を負いながら、翌日の土俵に立つ。そんなことが出来るはずがない。
稀勢の里の強い意志で、強行出場は決まったのだと言う。相撲を取ること自体が難しい状態であるにもかかわらず、それでも相撲を取るという決断を私は到底支持することが出来なかった。
力士としての生命を確実に縮めることになるし、この状態で横綱を相手に勝つことは難しい。そして何より、観ていて辛いのだ。一体どこに出場する理由が有るのか。私にはそれが分からなかった。
ただ、そんなことは稀勢の里自身が一番わかっているはずだ。それでも、出場するのである。その決断は、重いと私は思う。
横綱として、土俵に立つことはそれほど重要なことなのか。重症を負いながらも、休む方が辛いのだ。これだけ追い詰められながらも、見せたい相撲がある。
だとしたら、稀勢の里は一体どのような相撲を見せるのか。次第に私はそれが気になり始めた。今の稀勢の里の相撲を見てみたい。そんな感情が芽生え始めていた。
もしかすると、大変なことが起きるかもしれない。この状況だからこそ、とんでもないドラマを目の当たりにするかもしれない。稀勢の里の決断にかつての貴乃花を見たのかもしれない。
そこに私が愛した凡人としての稀勢の里は居なかった。何かもっと、高潔な横綱としての覚悟と生き様があるように思えたのだ。
稀勢の里はいかに勝つのか。
そして、いかに敗れるのか。
勝利を期待しながら、そんなに甘いものではないだろうとも考えた。ならば、事実を受け止めるしかない。それが、稀勢の里の決断なのだから。
不甲斐ない取組が続くのであれば、その決断は考えものだ。だから、今日のような結果が出続けるのであれば、出場するという選択は支持し難いと思う。
今日の私の期待感は、満身創痍の稀勢の里が何かを伝えようとしていて、それが何かを感じ取りたいと考えていたからこそのものだった。その何かが伝わらなければ、結局怪我人が無茶をしているだけになってしまう。
本来であれば、千秋楽を休むべきだと私は思う。ただもし、出場を決断したならばそこから何かを見せて欲しい。それでも土俵に立ち続ける意味を、横綱の重みを、私は観たいのである。
千秋楽。
稀勢の里はいかなる決断をするのか。
出るならば、私はもう目を背けない。
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稀勢の里よ、見せてくれ。満身創痍で土俵に立つ意味を。” に対して1件のコメントがあります。

  1. ICE より:

    敢えて厳しく言う。たとえ本人がどれだけ望もうとも、周囲が縛り付けてでも止めるべき案件と思う。悪化しないことを祈るばかりです。

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