39回目の優勝を遂げた白鵬の次の敵は、世間である。

39回目の優勝。
1050勝。
彼を褒め称えるには、一切の主観は不要だ。思い入れは要らない。いや、思い入れを排し、結果に目を向けることによって最大限に評価される力士なのではないかと思う。むしろ主観こそが彼の評価を難しいものにしているとさえ思うほどである。
白鵬翔。
大相撲の記録という記録を塗り替え、尚も勝ち星を積み重ねて塗り替え続ける伝説の男。
記録というのは二つの使い方がある。一つは、多くの人が素晴らしいと感じているものの素晴らしさを再認識させるということ。そしてもう一つは、多くの人が気づかぬ尺度でクローズアップし、素晴らしさを提議することだ。
白鵬の場合は前者は勿論のことだが、後者で別の力士を評価しようとしても、結局彼の凄さがクローズアップされることになる。そう。相撲に関するあらゆる数字は、白鵬の素晴らしさを立証するために存在するのである。
名実ともに大相撲の顔であり続ける白鵬は、大相撲の枠をはるかに超えている。だが、それほど巨大な存在であるがために彼は単に数字を賞賛される以上のものが求められていることも事実だ。
元々大相撲はスポーツとしての側面もあるが、単にスポーツというだけで片付けられない競技である。ルール上の制約はそれほど多くはない。しかし、ルール化されていないが、誰しも実行に移すことを躊躇い、実行すると大きく批判されてしまうことの中にこそ、大相撲の精神性が大きく反映されているのである。
そして、その躊躇うことを大相撲の美学として、ある程度の共通認識として保有しているものが品格ということではないかと思う。
大相撲というのは単にスポーツではない部分が根底にあるからこそ、特別だ。つまりは、品格も保ちながら技を競い合うことが大相撲を大相撲たらしめているのである。
ただ、この品格という言葉は非常に難しい。誰も品格というものを定義していないからだ。ある程度の共通認識は存在しているので、そこから外れた行為に及んだ場合はまだいい。例えば朝青龍のあの時期の行いは、言い逃れの出来ないものだった。
品格には二つの難しい面がある。一つは、一人に一つの品格があること。そしてもう一つは、時と場合と力士によってアリナシの判断が別れることだ。
品格という言葉を用いて批判されないように振る舞うことは、本当に難しいことだと思う。例えば、怪我をした力士が休場するにしても、明らかに態勢が低い力士を変化で破るにしても、果てはインタビューで涙を流すにしても、本来あるべきではないことだと思う。だが、その行為そのものに対する尺度は時代の移り変わりやそのファンの価値観によって変化するので、この時点で意見が分かれてしまう。
更には、仮に品格という尺度で考えればナシの行為にしても、力関係や星勘定、相手の傾向や注目度によってアリとして判定されることもある。照ノ富士の琴奨菊に対する変化と、稀勢の里の照ノ富士に対する変化で評価が異なっていたのは、そういうことだ。
結局アリナシというのは、その人の好き嫌いによって決められることだ。白鵬は意に沿わない決断が出来るからこそ強い。そして、好き嫌いが明確に別れる力士だ。一方で稀勢の里は意に沿おうとするからこそ人の心を打つ反面で、意に沿おうとするがために怪我から立ち直れずに居る。
白鵬は千秋楽も、変わった立会を見せた。手を顔の前に当てがい、体を開いて日馬富士を交わしながら攻撃に転じた。このまま日馬富士が落ちれば、去年の大阪場所のようなことになっていなかもしれない。日馬富士が残ったからこそその後の展開があり、力相撲を見せて勝つことで大横綱としての強さを知らしめた。この一番の影の功労者は日馬富士だったのではないかと私は思う。
終盤戦の取り組みでは、張り差しとカチ上げを多用した。そして、貴景勝戦では膠着した後で手を広げた。このような相撲は、いわゆる相撲の品格、綱の品格としてナシと判定する人も多くの割合で存在している。そう。白鵬の相撲は、今でも批判を受ける可能性が大きく残されているのである。
大記録を達成し、日本国籍を取得することになる白鵬には、更に多くのものが求められることになる。一人に一つ存在する品格が、更に白鵬を苦しめることにあるだろう。
世間の評価を捨てた白鵬にとって、最後にして最大の敵は、恐らく世間なのではないかと思う。白鵬は石浦に、山口に、そして炎鵬に、こうした相撲を伝えているのだろうか。そして、これからもその哲学は継承されるのだろうか。
白鵬の哲学は、世間を変えるのだろうか。白鵬のスタイルは、白鵬だから指摘されないのだろうか。差別という面倒な障壁が有るからこそ、そしてその主張が声高に叫ばれているからこそ、黙認されているのだろうか。
だが、もしそうだとしたら、白鵬親方の指導を受けた弟子達の同様の行いは批判の対象となることだろう。白鵬がその哲学を継承し、愛される力士に育てるには世間を変えねばならないのである。
次の闘いは、数字以上に巨大だ。
これまでで最大の闘いかもしれない。
いや、最大の闘いだ。
相撲の美学、品格という価値観との闘い。
相撲文化との闘い。
そして、世間との闘い。
数字との闘いを終えた白鵬は、史上最大の闘いに臨む。
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39回目の優勝を遂げた白鵬の次の敵は、世間である。” に対して1件のコメントがあります。

  1. shin2 より:

    引退後の処世術というのは、現役時代の実績とは異なるものなんだろう。
    大鵬(体調を崩したこともあったが)も千代の富士も引退後は不遇だった。
    白鵬はどんな形にしろ、相撲協会に残る決心をしたと思われる。
    横綱時代はトラブルや舌禍によるバッシングも、土俵上で勝つことで抑えてきた。
    「大横綱」であることがバッシングの防御になっていた。
    引退後はどんな大横綱でも委員待遇年寄として、場内警備から仕事が始まる。
    現在コバンザメのようにゾロゾロ着いてる白鵬の取り巻きが、引退後も白鵬親方(仮)を守ってくれるだろうか。
    いきなり人間関係の嵐に放り込まれるんじゃないか。現役の「横綱」と「元横綱」は全く違う。
    もっとも頭の良い人だから、私の心配ぐらいは想定済みかも知れないが。

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