明徳5四球から考える、相撲に於ける暗黙の了解への向き合い方とは?後篇
初めに。
前回の記事の中で明徳義塾高校が「5敬遠」をした、
という記述をしておりましたが、
敬遠ではなく四球だったということで訂正しております。
なお、全ての打席で勝負を避けたのではなく、
対戦した打席と敬遠的なニュアンスを含まない四球も
存在したこともお伝えいたします。
明徳義塾高校関係者ならびに
当ブログを読んでくださっている方に
誤認識を与えてしまったことにつきまして
お詫び申し上げます。
申し訳ありませんでした。
今回、甲子園予選で明徳義塾高校が勝利した試合の中で
4番打者への5四球を含んだものであったということは
前回の記事に書いたとおりである。
ルールには明記されていないが、
野球界では暗黙の了解として勝負どころの
敬遠はともかくとして、強打者を相手に
露骨に勝負を避けてはならない。
スポーツ界には上記の事例のように
暗黙の了解として存在するものが数多く存在する。
相撲界も例外ではない。
立ち合いの変化。
張り刺し。
勝負が決まった後での技。
各々に理由が有るが、こうした暗黙の了解については
キレイに守られているわけではない。
それは件の白鵬の一件を見ても明らかであろう。
ルールとして明確に規制対象とされているわけでななく、
力士としても暗黙の了解を破ることは
一つの選択肢として持っている。
そして不思議なことに、暗黙の了解というのは
破っても許されることもあるのだ。
立ち合いの変化について考えてみると、
小兵力士がすることについて批判する者は居ないし、
古い事例で行くと、引退前の貴乃花が
優勝争いをしていた際に変化をしても
さほど怒られることはなかった。
小兵力士の勝利。
引退前の貴乃花の勝利。
この二つの共通点とは一体何か。
そう。
結果に対して観る側が共感していることである。
判官びいきという言葉が存在するように、
弱者が強者を倒す、という筋書きが好まれる傾向にある
我が国に於いては弱者が幸せな結末、に辿りつくことは
プロセスはどうあれ受け入れられている。
そもそも弱者は強者とまともに戦っては
敗れてしまうことは明白である。
だからこそ、弱者は自らの特長を最大限に発揮する形で
戦略を練ることになる。
そして、その戦略の中に暗黙の了解破りも出てくる。
土俵上では暗黙の了解が破られることになるわけだが、
観衆としては判官びいきの観念が有るから
まぁいいじゃないか、となる。
そこで暗黙の了解に対して言及するのは野暮である、
目の前の結果に共感しているのであれば、
そこで納得しようとするのだ。
多少立ち合いの駆け引きで至らぬ点が有っても、
稀勢の里がそこまで大きな批判を集めないのも正にそれで、
だからこそ彼がこの問題を改善しきれずに居るのである。
ちなみにこれを20年前の松井の一件に当てはめると
視聴者の多くが観たかったものは松井の怪物的な活躍だった。
だからこそ、そのチャンスを根こそぎ潰す行為として
松井との対決を避けたことに対して視聴者の反感を買った。
教育が云々、正々堂々云々、というのは後付けの理由にすぎない。
単に自分の楽しみを奪われたことに対して怒っているのである。
自分が世間からどのように観られているか。
考えた上でセルフプロデュースすること。
メディアによる相撲への苛烈な対応を観ると、
これが一番必要なのかもしれない。
高知県の人間としては、明徳の不人気がさらに高まった。もちろん、高知県人の意見など、監督は気にしてないだろう。所詮県外選手のチームだし。しかし、松井の件があってから、しばらく明徳は低迷した。まあ堂々と甲子園に出られる状況ではなかったからなあ。しかしまたまた監督はチームの首をしめるような事をしてしまった。もうあの苦い経験を忘れたのだろうか。
あの作戦は、まだ明徳が全国の強豪と呼ばれる前の発展途上段階での話。
星陵の1回戦の後、馬渕監督は星陵の練習場へ偵察へ行く。
ここで出した結論は、4番の松井はどんなに作戦を立てても打ち取れるイメージが湧かなかったと言う。ならば5番の月岩を徹底的に研究しようということで、ある1つのクセを見つけ出す。それは内角の速球を意識させられれば、高確率で外のスライダーに凡退していると言う事。結果、月岩はノーヒットに終わる。
後に、明徳は強豪となり全国制覇することとなるのだが、馬渕監督は、地元(石川)で居酒屋を経営している月岩氏に会いに行っている。
その席で、当時の作戦のタネ明かし(月岩をマークしててこと)をし、本人に謝罪している。月岩氏は、光栄ですと答え大変に驚き喜んだそうです。
ちなみに2年後の1994年に那覇商が横浜高校の紀田選手に対して4打席連続敬遠してます。
賛否両論あると思うけど、全く同意です。今だにこんなに話題になってるのは、松井選手が頑張り続けてるからだ。松井は偉大だ。
高校野球って何なんでしょう、15歳・16歳になれば大人ですよ。夏が終わり数か月後には社会人です。正々堂々と・・・の宣誓までして敬遠の四球、ルール内であれば何でもオッケー、結果よければ何でも有、相手選手がエラーして喜び、親、応援団、ベンチまで罵声を浴びせ俗に文部省、主催者公認の間接的いじめ・セクハラ行為でしょう。審判のミスジャジで3アウトが4アウト、明らかにファールなのにホームラン、誰一人、抗議が認められない暗黙のスポーツです。正と誤。正と悪の見分け方さえ認められず、教えられずに彼らは社会に飛び込んでいくんですよ。いろんな事件を起こしても、巻き込まれても仕方ない気もします。
時間が経ってしまって申し訳ありません。
今回は,誠実な対応をして頂いてありがとうございます。
92年夏の星稜戦の5連続敬遠,今回の高知戦の5四球,
高校野球,相撲,プロとアマ,暗黙の了解について考えると,
スポーツは,選手のためにあるのか,観客のためにあるのか
という問題に行き着く気がします。
選手のためにあるとすれば,選手は,暗黙の了解(観客の期待)を,
気にする必要はないことになります。
観客のためにあるとすれば,選手は,暗黙の了解(観客の期待)を,
守るべきということになります。
「もしドラ」には,観客が顧客で,商品は感動であり,
観客を感動させる野球をすべきという記述があった気がします。
この分析が5連続敬遠には当てはまると考えていて,
松井の豪打を見たいと考える観客の期待に反する作戦でした。
白鵬の横綱相撲を見たいという観客の期待を意識すれば,
白鵬は暗黙の了解を守るべきということになります。
高校野球と大相撲を比較するなら,
アマの高校野球は,観客の期待を気にする必要が小さく,
プロの大相撲は,観客の期待を気にする必要が大きいことになります。
しかし,スポーツに何を期待するかという問題もあります。
剛速球やホームランや豪快な横綱相撲を期待する人は,
それなりの期待があるのでしょうし,
知謀と戦略を尽くした,シナリオのない真剣勝負を見たいという人には,
暗黙の了解など余計なものかもしれません。
色々な考えの方があると思いますし,あって良いと思いますが,
私は,スポーツは選手・競技者のためにあると考えています。
暗黙の了解など存在せず,選手が勝つために最善を尽くす姿が,
見る人に感動を与えると,私は考えています。
剛速球やホームラン,スーパースターが,高校野球の魅力ではありません。
力のないチームが,一丸となって,いかに強いチームを倒すかが,
高校野球の魅力だと,私は感じています。
剛速球やホームランを見たい人は,プロ野球を見たら良いし,
勝つべき勇者が勝つことを期待するなら,プロレスを見たら良いでしょう。
松井・法兼の豪打が見たかったから,チームの作戦を批判して,
そのために暗黙の了解や教育とか正々堂々とかいう言葉を持ち出すのは,
あまりにも幼稚で身勝手なことだと考えています。
20年前に,星稜に正々堂々闘って勝った明徳が言われなき批判をされ,
次の3回戦で,広島工に敗れたことは残念でなりません。
今年の夏は,広島工にリベンジして欲しいと願っています。
高知県の人間デス。
たしかに明徳は過去において、世間一般的には首をかしげる話題(松井5四球92年、オーバーエイジ問題99年、不祥事85年、05年)をいくつか提供してきたことがあり、高知ではホント人気ないすよねえ。
そんな馬淵明徳は今夏も高知法兼クンに5四球と世間一般的に好意的に捉えるのが難しい作戦をしましたねえ。またやったな!とは思いましたね(苦笑)
そこで今回のスレの、明徳5四球と相撲における暗黙の了解うんぬんについてをみつけ、考えたのですが、個人的には、高校野球と相撲は別次元の話であり、暗黙のルールについてを論的ににしようとしても、大多数の人が納得する結論を出すにはやや無理があるかなと思います。
暗黙のルールってのはあくまでも暗黙のルールであり、ケースバイケースであると思いますがどうでしょうか?
私は、高校野球はプロではないので、観客が楽しむ野球に重きを置く必要はないと考えてます。ですから高校野球ファンの期待を裏切ったからと言って、多少のヤジを監督は受け入れなければならないかもしれませんが、過剰な批判(帰れコールなど)はそもそもそれもおかしな事だと考えますがどうでしょう?
私は高校野球は選手が主役であると考えています。青春の大事な1ページをかけて全力で戦う姿に感動を覚え毎年郷土代表校を応援しています。いろんなことがあった明徳にも昔からかわらずですね。
今夏の明徳についてですが、昨秋の四国大会準決勝で高知に敗れ、選抜にはいけませんでした。私立校なら結果を出してこそ次がある厳しさがあるはずです。夏も高知に負けたら、良い選手は明徳にはこなくなるかもしれません。『窮鼠猫を噛む』と言う諺もありますが、つまり、普通一般的な成り行きや暗黙のルールを適用する余裕は今回の明徳にはなかったかな?!と考えます。
高校野球らしくないとか潔くないとか、それはそもそも各個人の高校野球観の個人的主観に立脚した一意見でしかない。意見はあっても良いと思うが過剰な批判こそ繰り返しになるがおかしいと思っています。
高校野球は、監督が指示を出し、監督が選手を使い野球をするわけだから、監督は多少の批判を受ける立場にはあると思うが、選手には全くもって責任はないと思います。
松井の5四球とて、好投手もいて優勝候補と言われた当時の星稜高校が、田舎の強豪とは言えない高校に、松井一人封じられただけで負けた事の方に、もう少し重きを置きクローズアップして考えた方が、建設的であり価値的であると思うがどうでしょうかねえ?
その辺の敗戦の分析をできずに、いまだに松井5敬遠を持ち出し明徳批判を繰り返し語る者は、野球は頭でするスポーツだと言う事を理解出来てないわけで、旧石器時代よりも古い人類といわざるをえない。
私はあの試合をテレビで見てましたが、あんな作戦で勝つなんてスゴイ!と、ホント驚きましたね。勝つために相手の綻びを見つけ、そして選手が一丸となって実行して勝利するという、甲子園での印象に残るゲームの一つとして記憶されてますね。
見方が違うと180度考え方に違いが出ます。日本的な心情的で言えば、5四球はあやまちかもしれませんが、実践的に言えば、アリだと思います。日本の野球とアメリカの野球に考え方の違いがあるのと、それほど遜色はない考えの違いなのです。
アメリカは野球の発祥ですが、日本と比べ、パワーピッチャーが多く、バントが少なく、その他にも、いろいろと野球に違いがありますが、日本の野球が変化球が多いだとか、アメリカに批判される覚えはありません。我々の野球なのですからね。
長くなりましたが、松井5敬遠はいつまでも明徳が批判を受けいれる事柄ではないのです。
私は、当時の星稜の監督よりも、当時の明徳馬淵監督の方が数段上の知将であると思います。星稜の監督に対処する策がなかった・・・それが全てだと思っています。