応援していた力士を失った時、どうすれば良いのか。前編
最近、幕下をどう観れば良いかと思い悩むことが有った。私にとって幕下を観ることは、つまり吐合を観ることだったからだ。
当ブログ開設のきっかけとなった力士、吐合。この力士を追う中で、実は幕下とは単なる幕内の二軍という位置付けではなく、120人が120通りの人生を持ち、それぞれが集大成となる闘いをしている場であることを教わった。
吐合に肩入れしながら、他の力士のバックグラウンドを覚える。そして、その力士の人生にも想いを寄せる。観るに連れて強さも、そして弱さも見えてくる。
超人ではなくその一歩手前の力士だからこそ、三十半ばの男は力が入る。乗り越えた時に悦びを覚え、そして乗り越えられなかったときに共に落胆する。気が付けば吐合だけでなく等しく幕下力士を見つめ、等しく一喜一憂する自分が居た。
幕下を観ると一つ困ることが有る。
つまり、肩入れする力士同士の対戦が増えるのだ。
どちらかが勝つということは、どちらかが負けることを意味する。両方勝たせる訳にはいかない。大相撲はそんな甘い世界ではないのだ。
どれだけ素晴らしい相撲を二人が取っても、勝者は一人だ。そしてどれだけ良くない相撲を二人が取っても、勝者は一人なのである。
グッドルーザーは勿論存在する。そして「勝ちに不思議の勝ち」も存在する。惜しい負けも1敗だし、酷い相撲での勝ちも1勝だ。
それは確かに理不尽だ。だが、大相撲は他のスポーツと比べて極めて平等と言える。何故ならどんな力士にも出場機会は均等に与えられる上に、勝ち負けの数に応じて上げられる番付も下げられる番付もある程度は決まっているからだ。
勝負としては理不尽だが、評価としては平等。そういう世界で2ヶ月に一度、120通りの人間ドラマが繰り広げられる。
未完のエリート。
相撲を覚えたての外国人。
再起を賭ける元関取。
そして特別な能力を持たない一般人。
そんな幕下を観ることは、私のライフワークとなった。そしてブログ開設から5年の月日が流れた。
だが、この時の流れの中で一つの異変が生じた。2015年夏場所で、吐合が引退したのだ。力士としての吐合のドラマが終焉を迎えたということは、つまり幕下を観る軸を失ったことを意味していたのである。
多くの力士を覚え、彼らの取組に一喜一憂するのは変わらなかったが、どうも力の入り方が前ほどではない。そんな筈はないと録画相撲を観ても、どうにも取組が目に入らない。
観ているようで、観ていない。
覚えているようで、覚えていない。
一人の力士の活躍と引退を一通り見届けた経験が無いので、こうした状況に陥ることに混乱していた。ひょっとすると、これは当然のことなのかもしれない。もしくは、私だけのことなのかもしれない。
幕下は魅力的だが、無理に観ても楽しくはないのかもしれない。むしろ、吐合が居たあの頃が異常だったのかもしれない。そんなことを考えながら、1年の月日が流れた。
次回へ続く。
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