応援していた力士を失った時、どうすれば良いのか。後編

~前回のあらすじ~
最近、幕下をどう観れば良いかと思い悩むことが有った。私にとって幕下を観ることは、つまり吐合を観ることだったからだ。だが、2015年夏場所で吐合が引退し、私は幕下を観る軸を失った。
多くの力士を覚え、彼らの取組に一喜一憂するのは変わらなかったが、どうも力の入り方が前ほどではない。そんな筈はないと録画相撲を観ても、どうにも取組が目に入らない。
観ているようで、観ていない。
覚えているようで、覚えていない。
幕下は魅力的だが、無理に観ても楽しくはないのかもしれない。むしろ、吐合が居たあの頃が異常だったのかもしれない。そんなことを考えながら、1年の月日が流れた。
応援していた力士を失った時、どうすれば良いのか。前編
何しろ今までの大前提が崩れているのだ。
想像してほしい。
野球ファンの方は、贔屓の球団が無くなった時のことを。
サッカーファンは、地元のチームが消滅した時のことを。
勿論それはイコールではない。一人の力士が居なくなることが、チームに置き換えられるわけではない。例えの9割が実は関連性が無いということも私は知っている。
だが、私が言わんとしていることは何となく分かっていただけるのではないかと思う。大事な何かを喪失した時のことがこの例えで共有できると私は考えている。
私は大相撲を観る強烈な動機を失った。動機を失いながら同じ熱量で大相撲に向き合えたとしたら、逆にその方が異例と言えるのかもしれない。
誰か別の感情移入の対象を見つけられるほど、私は器用な人間ではない。それぞれの力士のドラマは魅力的だがブログを開設するほどのテンションではない。無理に気持ちを高めようとしても、マイペースな私にそれは無理なことだ。
本来ならば、もっと楽なスタンスで相撲を観ることになったのかもしれない。しかしどういう訳か私の元には記事の執筆やインタビューの話が舞い込んできていた。気持ちのレベルは落ちているのだが相撲を見続け、相撲について考える必要が私には有ったのだ。
それでも相撲を観る。
相撲を観続ける。
そして気付いたことが有った。
やっぱり、相撲は面白いのだ。
白鵬の一挙手一投足にやきもきすることも、稀勢の里の強さと弱さに振り回されることも、呼出:総一のモノマネをすることも、国技館でいやげものを買い漁ることも、全てが相撲的な行為だということを私は知ったのである。
この数年の中で、私は大相撲の楽しみ方を星の数ほど覚えた。たとえ吐合が居なくても、その楽しさが失われることは無かったのである。そしてその素晴らしさを知るきっかけを与えてくれたのが、吐合という力士の存在だった。そういう話なのである。
もう吐合は居ない。そして、相撲は無理に楽しむものではない。だからといって、相撲から離れてしまうのは勿体ないことだと私は知ったのだ。
もし私にとって大相撲とは吐合を応援する行為なのだとしたら、私と大相撲の関係はこれで終わりだったと思う。吐合を失ったが故に私はここ1年無理をして大相撲を観ていた。だがそれは好きだからこそ無理をしていたということだった。
考えてみると若貴ブームの頃は、相撲人気ではなく力士人気だった。当時の人気力士が土俵を去った後、ブームは消滅した。それは、人気力士の台頭と引退のタイミングを観れば一目瞭然である。翻って今の人気は、力士人気ではなく相撲人気だ。特定の力士によるムーブメントは、あくまでもきっかけに過ぎない。
気持ちが盛り上がらないのは仕方ない。前と同じではないことは確かなのだから。だがある力士で相撲に入ったとしても、もう既に相撲の楽しみ方を覚えてしまっている。そしてその楽しさは、他では味わえないものなのだ。
もし私と同じように特定の力士を失ったとしたら、安心してほしい。たとえ贔屓の力士を失っても自分のペースで見続ければ、やっぱり相撲は面白いのだ。振り返るとそういうことを学んだ1年だったように思う。
そしてまた、名古屋場所が始まった。
誰が居なくても、大相撲は2ヶ月に一度やって来る。
気が付くとやはり観ている。
これで、いいのだ。
◇おしらせ◇
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