あと2日の期待と不安。稀勢の里を観ることが、全てエンターテイメントである理由を考える。

どうせ鶴竜に負けるのだろう。
勝っても明日の豪栄道戦で悲劇は起きる。
もう幾度と無く繰り返されてきた光景ではないか。よせばいいのに、もっと楽しいことは有るだろうに、それでも私は始発で両国に来ていた。
0時前に帰宅し、3時間しか寝ていない私にとって、始発も辛いが2時間立ち続けるのは更なる苦行だ。もしそれを「そうでもないのでは?」と思われる方は、行列が少しずつ伸びることだけが暇潰しという行為を想像してほしい。
それでも私が割に合わぬ行為に手を染めたのは、当然昨日の一番が有ってのことである。
そう。
あの照ノ富士を、正面から破った一番だ。
今場所の照ノ富士は「単に白鵬が照ノ富士に置き換わっただけではないのか?」と思わせるほど圧倒的だった。気が付いたら組止められて、振り回されて倒される。白鵬以外に勝つ者が現れないのでは?という予感さえ有った。
3敗という気楽な状況が産んだ会心の内容かもしれない。だがあれは、格下の一世一代でもなければ照ノ富士の大ポカでもない。左を差し、振られても落ちずにそのまま攻め立て、土俵際に追い詰めたところで崩れ落ちた。怪我も有ったが、素晴らしい内容だったことは間違いない。
だからこそ、私は次を期待した。
いや、期待してしまった。
そして、期待した後ですぐに浮かんだのが、冒頭の悲観的なイメージだったのである。
千秋楽での琴奨菊戦連敗。
度重なる碧山戦の苦杯。
この2年で悲劇は繰り返され、期待する度にダメージを受け続けてきた。
もう期待するに値しない力士なのかもしれない。歴史が積み重なる度に紙面でもネットでも、やらかす度に言葉の暴力が横行する。自己防衛のために、そうした意見をシャットアウトしようとすると、2週間で少なくとも3日、多いと2日に1度は情報との戦いを余儀なくされる。
その先には悲劇しか無いことを分かった上で、私は始発に乗っている。
楽しいからこそ私は相撲を観ている。それはこの数年変わらない。だがこの一見見返りが無い上に、ダメージが残る行為が止められないのは一体何故なのか。
一言で言えば「全て含めてエンターテイメントだから」なのだと思う。
必死で期待して、裏切られること誰かが他に居るだろうか。「明日こそは」と明るい未来を描き、その可能性を見出だした時の楽しさは他に代えがたいものではないだろうか。
そう。
それは報われるか否かの問題ではなく、ある意味期待することで完結しているのである。期待の根拠が見えれば、つい結論としての幸福を描く。その行為がたまらなく楽しい。
途切れずに期待を抱かせる凄さが逆に不幸を招くのだとしたら、これほど辛いことは無い。だが、可能性が有る限り期待することは、それもまた幸せなのだ。
だから私は今日、悲劇を観るために始発に乗っているこかもしれない。だが、それでいいと思う。期待するだけでも既にエンターテイメントだし、何より期待せねば最高の瞬間には立ち会えないからだ。
期待するだけでも楽しいが、 結局私は報われることを求めている。だが、笑われるかもしれないが、あと2日で報われるかもしれないのだ。
ならば、追いかけようではないか。
それが稀勢の里を楽しむということなのだから。