何故北の富士さんの解説は好意的に受け止められるのか?言葉への共感と人間的魅力との相関関係を考える。
皆さんは、相撲解説者では誰が好きですか?
オフ会の席でこの質問をすると、人の数だけ答えが出てくるトピックだと思う。その人の嗜好が大いに反映されるので新たな発見が有ってとても面白い。それほど気にもしていなかった解説者にも実は特徴が有り、拘りがあり、しかし普段はなかなかそこに気付かない。考えてみると普段は相撲に注目して観ているので、意識的に耳を傾けていないと言葉が入ってきづらいという解説特有の特徴がそうさせるのだと思う。
取組に対する解説というのは特にその性格が強く、理路整然と話しても、精神論を語っても、強い言葉やパンチラインが無ければ中々注目しづらいものである。ちなみに舞の海さんの解説というのは実はこれが上手く、視聴者の注目を惹く言葉を適切なタイミングで発することが大きな特徴だ。勿論好みの問題は有るし、舞の海さんの解説を否定する方はそもそもこの言葉やタイミングを否定されることだと思う。ただ、そもそもそれが出来るということ自体、かなり難しいことだということだけはご理解いただきたい。
そういう意味で考えると極めて特異な解説者と言えるのが、北の富士さんであることは間違いない。
北の富士さんの解説に於いて特殊なのは、「解説」という意味で役割を果たしていないところに有る。技術的な説明についてしているのかもしれないが、少なくとも私は殆ど覚えていないし、その役割を北の富士さんに求めてはいない。
だが北の富士さんが私に特別なのは、つまり解説ではない部分で誰も真似出来ない役割を果たせるからだと思う。一言で表すと、視聴者代表ということだ。この手の解説者は他の競技でも存在していて、野球で言うところの川藤幸三、サッカーで言うところの松木安太郎がこれに当たる。視聴者代表というポジションは、誰もが同じ目線を持っている分だけ逆に難しいと私は思う。
北の富士さんが面白いのは、まず言葉に共感するところだ。
一番その特色を表しているのが隠岐の海に対する理不尽なまでの厳しさだ。普通「稽古をしない」などということをカミングアウトされたらその発言にはどこかで嫌なところが出てしまうのだが、北の富士さんにはそれが無い。
「稽古をしない」「練習をしない」という趣旨の発言はあらゆるスポーツの解説者が苦言として口にするのだが、その言葉の後には大体「俺達の時代はもっと練習していた」という言葉が待っている。その裏の意図が透けて見えるからこそ、苦言に対してはどうしても身構えてしまう。いや、その解説者が普段からどのようなメンタリティでその言葉を吐くかを見定めようとしてしまうのだ。
解説者に対して、いや、この手の視聴者代表という立ち位置の解説者に対して、何を見ているか。一番重要なのは、その人となりだと思う。発言の正当性もさることながら、結局見ているのは「誰が発言したか」である。北の富士さんは、人間としてあまりに魅力的だ。
率直さと悪意の無さ。
偉ぶらない謙虚さ。
チョイ悪のファッションセンス。
相撲協会から離れた故の余裕。
その魅力を挙げればキリがない。悪い印象を抱く積極的な理由はそれほど存在しないのである。
北の富士さんの凄さは、言葉が率直でありながら諍いを招かないところだ。先に述べた隠岐の海に対する苦言などその最たるところだが、もう一つ挙げるとすると日本人力士に対する期待である。
最近ではこの手の発言については批判的に受け止める方も大勢居る。外国人力士が支えてきた相撲界に対して失礼だ、とか、それは差別に該当する、という類の正論で北の富士さんにレッテルを張って叩くことは簡単だが、そうした方が居ないのは北の富士さんが魅力的な故にそういう動きにブレーキを掛けるからだろう。
そもそも誰かを叩くときは、一つの発言だけがその原因ではない。大抵の場合、元々その人物に不快感を抱いていることが引き金となっている。元々好感を抱いている場合は、多少の発言が有っても問題視することは稀だ。
唯一問題があるとすれば、北の富士さんの後継者をどうするか。この一点に尽きる。恐らく北の富士さんが解説を辞めた時、私は誰かに北の富士さんを求めるだろう。それが困難なことだと知りながら。
チェックのシャツに白いGショックを身に纏う北の富士さんに酔いしれる日々が、一日でも長く続くことを心から望む。
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