稀勢の里よ、傷の数だけ強くなれ。
先日、スポーツナビの企画で西岩親方に3月場所の展望についてインタビューを行った。
記事はこちらを参照していただきたい。
琴奨菊の綱取りの可能性や最近の白鵬の変化、そして逸ノ城の不調や若手力士に対する期待など話題は尽きなかったのだが、中でも最も印象的だったのが話題が稀勢の里に移った時のことだった。
西岩親方はこう語った。
「(琴奨菊の優勝で)一番悔しいのは稀勢の里ですが、彼にはチャンスです。」
稀勢の里。
相撲はほぼ未経験でありながら中卒で琴欧洲と共に番付を駆け上がり、17歳で関取に、18歳で入幕という離れ業を演じてきた日本人力士希望の星。
大関としての成績は、258勝117敗。勝率は実に6割8分9厘。1場所に均すと確実に2桁を越える勝ち星が期待できる、大関として極めて優秀な力士だ。白鵬をぶん投げ、照ノ富士を破壊する。こんな芸当が他の誰に出来るというのか。
こう語ると素晴らしい力士のように思えるのだが、稀勢の里への評価には「でも」が付いてしまう。思えば早い段階で大関になれなかったところから「でも」の歴史は始まったように感じる。
稀勢の里は怪物であることは間違いない。だが、怪物的な強さと信じ難い弱さが同居していることも事実だ。我々は入幕以来、素晴らしい可能性もだが信じ難い弱さを10年余り目撃し続けてきた。そしてその弱さの方にこそ、目を奪われてしまうのである。
当初の期待から考えると三役定着からの上昇カーブは緩やかであることは間違いない。それ故にチャンスが巡ってきても逃し続けてしまった。
古くは琴欧州に大関で先を越され、気が付けば琴奨菊にも大関昇進で後れを取った。昇進後も優勝と綱取りを鶴竜に攫われ、日本出身力士として久々の優勝も琴奨菊が掴み取る結果となった。稀勢の里は期待に応えているとは言い難い。だがそれでも何故か期待してしまう。それは「でも」の裏に有る強さに惹かれるからだ。もはや稀勢の里の本質が強さなのか、弱さなのか、私には分からない。
そして、稀勢の里の不思議なところは、逃しても逃してもチャンスが巡ってくるところである。
普通、少ないチャンスを逃してしまうと「そういう力士」になってしまう。当初の期待値が高かったが、チャンスを逃したがために下位に定着している力士は多い。恐らく読者の方の数だけ「そういう力士」は居るのではないかと思う。
だが、稀勢の里は「そういう力士」にならなかった。
実はこれが凄いことなのである。
逸ノ城を見れば分かるが、幕内上位は現状維持では瞬く間に淘汰される世界だ。その中で上昇カーブを描き続けること。そして何より、大きな怪我をしないスタイルを持っていること。淘汰が激しい世界だからこそ、生き残ればチャンスは必ず巡ってくる。
稀勢の里が高い次元で期待を裏切り続ける中、横綱と大関の顔ぶれは大きく変わった。顔ぶれが変わる時、必ず誰かが故障する。不調に陥る。そして稀勢の里のコンディションが上がることが有る。このタイミングが重なった時がチャンスなのではないかと私は思う。
そしてそれは、今なのだ。
悔しさは結果を渇望させる。結果が欲しければ自分に無いものに向き合い、そして相手を研究することになる。その結果なのだろうか。場所前のある日、稀勢の里は琴奨菊と嘉風を相手に16勝3敗というパフォーマンスを見せ付けた。
「涙の数だけ強くれるよ」というフレーズが昔の流行歌には有ったが、稀勢の里に関しては涙では生ぬるい。
そう。
傷の数だけ強くなった力士なのである。先代の親方を失い、先を越され続け、先輩力士も引退し、ため息をつかれる度に稀勢の里は傷を負った。そして少しだけ、でも少しずつ強くなっていった。
そして先場所、稀勢の里は新たな傷を負った。
それも、特大の。
新たに刻まれた傷は、稀勢の里を強くするのか。
西岩親方は、こうも語った。
「琴奨菊が稀勢の里の目を覚ましたんだと、数年後に言いたいです。」
私もそう言う日が来ることを心から望んでいる。それも、出来るだけ早いうちに。
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