白鵬にとっての「5つの不幸」を振り返る。

私は今、白鵬の置かれた状況を残念に思っている。
2011年の頃、確かに相撲ファンと白鵬は同じ方向を向いていた。相撲界の危機的状況を憂い、相撲の在るべき姿を体現してほしいという想いに飢えていた。そして、白鵬はおおよそ考えられる限り最高の形でその姿を体現し続けていた。だが、今は悲しいほど別の道を歩んでいる。
振り返ると、白鵬は不幸な状況に囲まれているように感じてならない。今更ながら、不幸の歴史を振り返ってみたいと思う。
第一の不幸は、白鵬がスタイルを変えたことだ。
白鵬のスタイルは大相撲の歴史の中で築かれてきた、いわゆる大横綱の系譜。王道の四つ相撲の美は、文句のつけようの無いものだったように思う。大相撲が失った尊厳を守るのが大相撲の歴史の美だとすれば、こんなに痛快な話は無い。事実白鵬が見せていたのは、そんな痛快な姿だった訳である。
だが丁度国技館に人が戻り始めた頃、白鵬の相撲は変わり始めた。オーソドックスで極めたあの姿ではなく、批判を覚悟で勝ちに邁進する相撲に変わっていった。まずここに、違和感を覚え始めていた。たまに見せるラフな取口。横綱らしからぬ策略。
だが、それでもその時は2011年の白鵬を重ねていたのである。
白鵬はどうしたのだろうか。
体が悪いのか。
それでも勝ちたい動機が有るのか。
違和感を覚えながらもどこかで白鵬の顔色を伺い、白鵬に寄り添っていたのがこの頃だ。
そして第二の不幸は、白鵬のライバルが現れなかったことである。
ライバル不在の状況で、白鵬は優勝を重ねた。日馬富士もその頃には横綱に昇進し、把瑠都も怪力を武器に次代の横綱と目されていた。
だがそれでも、白鵬には遠く及ばなかった。
朝青龍引退後の大相撲は、白鵬がずば抜けていた。強かった。あまりに強過ぎたのである。
強さは畏敬の念も抱かせるが、皮肉なことに強さには慣れてしまうのだ。毎場所のように目の当たりにする白鵬の強さは、称えられるものではなくもはや退屈すらも産み出してしまっていた。
素晴らしいことは分かっている。だが、エンターテイメントとして大相撲を観た時、白鵬が常に中心に居たのではつまらない。やはり同じ次元に立てるような、強力なライバルが必要だったのである。
第三の不幸は、稀勢の里の存在だ。
白鵬が圧倒し続ける中、大半の観客たる日本人は白鵬に対抗出来る日本人を求めた。同じ国籍を有する郷土力士としての日本人に期待をするのは自然なことだ。それほど当時の白鵬も、モンゴル人力士も、東欧系の力士も強かったのだ。
だがここで、この強過ぎる外国人力士達に郷土力士が対抗出来なかったとしたら、ここまで日本人力士に対する期待は高まらなかったことだと思う。何故なら、期待に値しないからだ。
例えば日本人力士のトップが、白鵬を相手に生涯で数回しか勝てなかったとしたら、果たして身の丈に合わない期待を抱かれていただろうか?例えばクンロク大関が日本人力士のトップだとしても、白鵬に対抗することを期待するだろうか?
それは、さすがに無理な話である。
そういう意味で言えば、稀勢の里の実力は絶妙だったのだ。時に白鵬を圧倒し、どの外国人力士にも対等に渡り合える。大関としては極めて優秀で、付け加えると相撲の形がオーソドックスなのである。
退屈な大相撲をひょっとしたら稀勢の里なら変えられるかもしれない。歴史に残る大横綱を郷土力士の代表たる稀勢の里が倒せたら、これもまた痛快な話ではないか。過剰な期待を寄せられながらも、時にその期待に応える稀勢の里もまた、稀有な力士なのである。
第四の不幸は、観戦マナーの変質である。
大相撲の観戦には本来、暗黙のルールが存在している。子供の頃から相撲に慣れ親しんでいれば、これらの暗黙のルールを理解することが出来る。だから、そういう世代の方ならば誰でも結果的に観戦マナーを守ることになるのである。
これはもはや良い悪いの話ではないのだが、長年相撲を観ている立場からするとこの観戦マナーから外れた行為を目撃した時に、何だかむず痒い感じになる。観戦の美も、大相撲の様式美の一つなのである。
だが、この美が変質してきている。それは、相撲人気の低下によって子供の頃からこうした様式美に親しんでいない方が増えてきたからである。
コールや手拍子、力士の名前を書いた紙を持つことも含めて、新しい時代の応援は、自分が応援したい力士への想いを強く伝える行為だ。観方を変えると、相手に対するリスペクトに欠けていると言えるかもしれない。
強過ぎる白鵬は、応援の対象ではない。何故なら、応援しなくても勝てるからだ。応援を受けるのは、何時だって白鵬の相手力士だ。
相手が勝つことを望んでいる。つまり、自分が負けることを観客は望んでいると言い換えることも出来る。強い横綱の宿命とはいえ、これは自分を蝕むことになる。ましてやこれほど大相撲に貢献してきた自分が、何故これほどまでに敗れることを望まれるのか。理不尽ではないだろうか。30そこそこの男性がそう考えるのは自然なことだと私は思う。
そして最後の一つが、ブレーンの不在である。
もしかすると私は、白鵬にとって最大の不幸はこの部分なのではないかと考えている。土俵の上で荒れた相撲を取るのは仕方ないことなのかもしれない。それは、競技としてルールの範囲の中で一つの選択肢として存在するのだから、勝つための戦略として選ぶことは咎められない。
実際、そういう選択をすることによって今白鵬は歴代横綱の中で最多の優勝回数を誇るに至っている。勝つための選択として、今のスタイルはアリなのである。ただ、当然好きか嫌いかというのは別の話だ。好きな人が居れば嫌いな人も居る。それが今の白鵬の相撲なのだ。白鵬がその道を選んだのだ。それ以上に何もいうことは無いと思う。
ただ、土俵を降りた後のことであれば話は違う。メディアに報じられる白鵬の言動は、カッコ悪いのだ。審判部批判で物議を醸すタイミングで、琴勇輝のルーティーンを批判する。千秋楽に変化した翌日に、父がアルツハイマーであることを明かす。
確かにそうかもしれないが、悪意を持って発言を受け止められかねない状況の中で言うべきことではない。誤解されている中で、更に誤解を深めるような発言をしてしまうのは良くないことだ。土俵上の振る舞いは制御できないかもしれない。だが土俵外の振る舞いは、いくらでも制御できるのである。
大横綱を汚さぬためにも、こういう時こそマネージャーやブレーンと共にイメージ戦略を練らねばならない。言動や振る舞いも、誤解が生まれないように配慮せねばならない。

もし、もしである。
もし、白鵬が今もオーソドックスだったら。
もし、朝青龍の現役がもう少し長かったら。
もし、稀勢の里がもう少し弱かったら。
もしくは、稀勢の里がもう少し強ければ。
もし、観客の観戦マナーが変わっていなければ。
もし、白鵬の言動を諌める方が居れば。
今の白鵬は居なかったのかもしれない。
だが、もう今の白鵬しかは存在しないのである。
あの頃にはもう戻れない。
だが、生きている限り人生は続くのである。
更に溝を深めるのも人生だ。
だが、距離を縮めることが出来るのもまた人生だ。
振り返ると大概のことは笑い話になる。
そう。
終わってみるとちっぽけな話なのである。
いつか「しくじり先生」で笑って今を振り返れる日が来ることを望んでいる。そういう次元の話だと信じているから。
◇お知らせ◇
幕下相撲の知られざる世界のFacebookページはこちら。
限定情報も配信しています。