福祉大相撲に見られる、相撲界と萌えの構図とは?
昨日NHKで福祉大相撲を放映していた。
残念ながら今回は所用で観られなかったのだが、
年に一度、本場所でもトーナメントでもなく
力士が観られる貴重な機会である。
ファンサービスの回でも触れたが、
力士と言うのは土俵を下りると
全方位的に萌えで構成される稀有な立場である。
しかし、ここで疑問が残る。
力士は歴史的に尊敬を集めてきたにもかかわらず
なぜ萌えを描く必要が有るのだろうか?
それは、これまでの相撲界を取り巻く環境に起因している。
「巨人・大鵬・卵焼き」という言葉に代表されるように
相撲というのは憧れの対象であった。
少年マガジンの表紙に当時の横綱が登場したり、
アイドル映画と同列で「若乃花物語」を上映したり。
かつての力士というのは、土俵で相撲を取っている姿で
尊敬を集められたわけである。
だが、憧れというのは継続的に見たいと思わせるために
必要不可欠な要素ではあるのだが、
憧れ故に近寄りがたい印象を与えるということが
唯一のマイナス要素として存在している。
誰もがこのマイナス要素を強く認識しているからこそ、
この緩和策として「ファンサービス」という
発想が生まれるのだが、双方の立ち位置を
正しく理解していないとファンサービスは逆効果になる。
実は、このポイントを誰よりも正しく理解しているのが
何と大相撲協会なのである。
そして、福祉大相撲というのは
力士の萌えを最も正しく描いているのだ。
相撲協会は力士を主体的に管理しながらも、
誰よりも俯瞰出来ているのである。
力士がコミカルに反則を紹介する「しょっきり」、
小さな子供に大柄な力士が立ちはだかるドリームマッチ、
そして、有名歌手と流行りの歌を歌う。
そう。
このような力士の姿に我々はほのぼのとした
心境になるのである。
この「ほのぼの」という生温かい居心地の良さこそが
萌えなのであり、それは我々が普段
「ちびまる子ちゃん」や「志村どうぶつ園」を観ながら
自然と顔が綻ぶ類の心境ということである。
力士と萌えというのは一見結びつかないように見えるが、
土俵上での完成度が高ければ高いほど
それとは程遠い姿、即ちほつれを見せることで
ギャップにクラクラさせられるわけだ。
そして、白鵬のキャンプ参加の時にも指摘したのだが、
福祉大相撲に於ける力士と言うのは
決して自らを下げて親近感を抱かせるという訳ではない。
しかも、自らを下げている印象を抱かせないのは
伝統的にこのような行事を行っているからである。
もし今、しょっきりのような見せ方を新たに始めるとしたら
我々はどう思うだろうか?
恐らく視聴者に対する媚びを連想させられるだろう。
だが、しょっきりに伝統の要素が加わることによって
「そういうものなのだ」という見えざる力が加わる。
そして、その行為に対して理解を示さざるを得ない状態になる。
そもそも相撲というのは伝統の力によって
様々な不条理をカバーしている。
ちょんまげ。
まわし。
肥満体。
一歩引いて外国人目線で観てみると、
全てが不条理なのである。
だが、その不条理は伝統というフィルターを通すことで
納得させられるのだ。
我々は相撲に不条理を見ている。
だが、不条理に伝統が加わることで
疑問に対して正しい意味で蓋が出来る。
相撲を楽しむというのは、歴史によって創造された
一定の価値観を楽しむということなのだ。
福祉大相撲におけるしょっきりは、それを如実に語るのである。
チャンネルを回していたらたまたま映ったのでちょっとだけ眺めていました。
相撲甚句を初めてちゃんと見ました。
初めて投稿します。
福祉大相撲、歌コーナーの途中まで見(て、やめ)ました。
出演する女性歌手について一言。
若手の歌手、今年はスマイレージでした。最近ハロプロのメンバーしか出ていないように思います。他にふさわしい歌手はいないものでしょうか。
濱錦引退、春日山継承。大学同期では高見盛がただ1人の現役となってしまいますね。大学の後輩として少々寂しい気分です。
そのうちまた投稿します。今後ともよろしくお願いします。