イチローがヤンキースとの再契約を締結したことに見る、横綱の引き際の美学とは?
イチローがヤンキースと2年契約を締結した。
日本で圧倒的な成績を残し、そして
メジャーリーグでもトップに立った上、
野球人気低迷に瀕する日本野球のために
リスクしか無い国際大会にも出場し、
神懸かり的な活躍を見せた、あのイチローである。
来年以降もメジャーリーグナンバーワン球団での
キャリアを続けるということは、いち野球ファンとして
喜ばしい限りである。
とはいえ、今年で39歳を迎えるイチローも
寄る年波には勝てず、首位打者争いをしていた頃と
比較するとパフォーマンスが低下しているのもまた事実だ。
それ故2年契約で1300万ドルと、かつての
1年1800万ドルという規模と比較すると評価が低下している。
ヤンキース移籍後は3割2分を残し、
復活したと言われているが、全盛期のイチローであれば
むしろ少々不調とさえ言われる水準である。
来年も現役を続けてくれる、
そしてその球団があのヤンキースという嬉しさは
当然あるが、もうかつてのイチローでないことを思うと、
寂しさが無いわけではない。
私達は来年以降もイチローがヤンキースタジアムで
プレイする姿を目撃することにはなるが、
全盛期のそれと比較して、力が落ちていることを
日々感じることになる。
かつての姿が鮮烈だっただけに、その衰えを
日々目の当たりにする度に終わりが
近づいていることを感じるのである。
野球選手であれば、レギュラークラスの成績が
残せなくなった時に引退という選択肢が
現実味を帯びてくる。
そういう意味で言えば、野球選手は幸せなのだ。
何が言いたいかと言えば、つまり相撲のことである。
幕内を経験した力士にとっての引退のデッドライン。
それは大抵の場合、十両ないしは幕下降格である。
力士にとって一人前、野球選手にとっての
レギュラークラスと置き換えると
この水準というのは概ね近しいと言えるかもしれない。
自らが一線で戦えないラインとして
十両・幕下への降格を設定するのはとても自然なことである。
力の衰えを技でカバーするが、そこには
全盛期の姿は確実に存在しない。
たまに目を見張る取組も有るものの、
そこで出てくる称賛の言葉が
「全盛期を彷彿とさせる」なのである。
だが、これはあくまでも大関までの力士に言えることである。
横綱であると、こうはいかない。
横綱とは神であり、全力士の目標でなくてはならない。
優勝を争わない場所は失敗であり、
11勝や10勝では批判をされる。
9勝などでは横綱審議委員会が動き始める。
横綱には衰えることさえ許されない。
力無き横綱はただ去るのみなのだ。
このプレッシャーが、横綱を横綱たらしめる。
だが、これに耐えられない場合、
短命横綱として不名誉な形で人々の記憶に残ることになる。
双羽黒や大乃国は、強かったころの記憶と言うよりは
横綱時代の負け越しやトラブルから来る成績低迷の方が
語られる始末である。
横綱だからこそ高められる相撲というのも存在する。
だが、今年や来年のイチローのように、
全盛期ではないからこそ見せられる
アスリートとしてではなく人としての強さを
見ることが出来ないのは残念である。
かつての姿ではないからこそ、もがき苦しみ、
そこから生まれる新しい姿や
苦しんだ末に去る決断をする過程を見せることもまた、
アスリートの魅力である。
横綱は、人間には戻れない。
苦しむ過程のような人間的な部分を見せることが許されない。
古くから「引き際の美学」という言葉が存在し、
衰える前に身を引くことの美しさが啓蒙されているのは
横綱の生き様に美しさを感じていたからなのかもしれない。
老いたからこその美しさ。
そして、老いを見せない美しさ。
どちらもまた、美である。
>このプレッシャーが、横綱を横綱たらしめる。だが、これに耐えられない場合、短命横綱として不名誉な形で人々の記憶に残ることになる。双羽黒や大乃国は・・・。
このあたりの記述は主観的かつ皮相的です。
大乃国と双羽黒を同列に論じてはいけないでしょう。大乃国に関しては、八百長告発事件を契機に、彼の現役時代の真摯さがクローズアップされ、「孤高のガチンコ横綱」として再評価されているわけですからね。