平野恵一引退。地元の先輩としての「平野君」と「平野選手」の狭間で揺れながら、その凄さを改めて考える。

本来は相撲のブログなのだが、どうしても書いておきたいことが有るので、場所中ではあるのだがこの件に触れておきたい。
オリックス平野恵一選手、引退。
唐突に思えるかもしれないが、実は平野選手は小中学校時代の1年上の先輩だ。生徒数の多い学校だったので直接話したことは同級生のカマタ君を交えての一度しか無く、またリレーでバトンを一度渡したことが有る程度なので親しかった訳ではない。
地元からプロ野球選手が排出されたこと自体前代未聞で、しかも野球ファンであれば誰もが知っている選手。そういう対象をプロ野球選手:平野恵一ではなく単に平野君として認識している視点から語ってみたいと思う。
新宿から電車で20分程度の、都会か田舎かと言えば都会に属するのだが、ベッドタウンとして住み着いた住民と生粋の地元民が入り混じって田舎の色合いが強い町。それが登戸という町である。
実はこの町は少年野球が盛んで、4つの小学校で10チームが存在し、リーグ戦を行うような土地柄だった。野球が上手い少年は同級生だけでなく父兄の間でもちょっとしたスターで、中学校に入ると彼らが合流してある種のオールスターチームを作ることになる。
平野選手の1学年上が地元の期待が極に達した世代で、別のスポーツに流れること無く主要メンバーが中学校の野球部に集結したことから、この田舎町は色めき立った。この学年で抜群の才能を持つ1人の少年こそが、地元の期待を一身に集めていたのである。
ここで一つ話しておきたいのが、野球が非常に盛んな土地柄であったにもかかわらず平野選手はそれほど地元から注目されることは無かったことだ。つまり、彼は地元の野球チームに所属していなかったのである。
平野選手は学年で1、2を争う俊足だったことは広く知られていたのだが、地区大会で敗退するレベルのサッカー部に所属していて且つ、これと言って逸話も無かったことから「足が速い先輩」の域を抜けることは無かった。
だがこの1学年上のオールスターチームは結局、さしたる結果も出せぬまま1年を終えた。一番の才能を持っていた少年は星一徹のような父との関係性に疲れ果て、普通の高校生になることを選んだ。他のオールスター達も野球以外の楽しさを求めて、学園生活を謳歌することを選んだ。そんな不完全燃焼に、父兄たちの落胆は大きかった。
野球が盛んな公立高校で、ギリギリレギュラーを取れるか取れないか。オールスターではなく、そういうレベルの選手だけが高校で野球を続けることを選んでいた。当初の無限の期待ではなく、兄の友人が頑張っているからという程度の熱量で地方大会をTVKで観て、そして何も起きぬまま、大会は終わった。
もしあのレベルの才能が、高校で野球を続けていたらどうなっていたのか。そんな有りもしない「If」を語っていた翌年、何気なく甲子園を観ていたところ目を疑う光景がそこには有った。
桐蔭学園のショートが、平野君だったのである。
他人の空似にしては独特の風貌過ぎる。名前を見ても、確か下の名前は「恵一」だったはずで、恐らく同一人物なのだろう。だが何故、あの平野君が野球をやっているのか。しかも神奈川の名門:桐蔭学園で。サッカー部で足が速かったのは知っている。しかしそれとこれとは全く別の話だ。
前年TVKであれほど遠くに見えた高校野球の世界が、全国放送でいきなり登戸レベルの距離になった。もう、訳が分からなかった。桐蔭学園の平野恵一選手は小さな体で堅実な守備を見せ、素人目にも分かるキャプテンシーでチームをけん引していた。
自分が知っているレベルの才能が全く通用しない世界こそが高校野球であり、平野君は平野君でしかなかった。そこに居るのであれば、強いて言うならあの時「If」を想い描いた彼だったのである。それでも、あくまでも「強いて言うなら」なのだ。平野君と平野恵一選手の狭間で、遠かったはずの高校野球とそこに有る高校野球の狭間で、私は混乱していた。
平野君は平野恵一選手としてその後東海大学に進学し、逆指名でオリックスに入団することになる。あとの活躍はご存知の通りだ。
テレビで観る平野君は、平野恵一選手だ。平野選手だから出来るスーパープレイを、精一杯やってのける。例えばこれがバントやつなぎのバッティングのような、泥臭いスキルで生きるタイプのスタイルであれば何となく分かるのだが、守備も走塁も突出している。あわや首位打者という年まで有った。
そんな平野選手に少なくとも二つ、確実に言えることが有る。
一つは、優れた環境を選んでいたこと。
そしてもう一つは、プロに入ってから並外れた努力が有ったこと。
登戸という町で、地元の野球チームではない環境を選択した少年は彼だけだった。後で聞いた話によると、平野選手は父が監督を務める全国レベルのシニアチームに在籍していたのだという。同じ学校の友人が楽しい野球に興じる中、地元と異なる環境で野球をする。
地元でやりたいという想いが無いわけではなかったと思う。それは自然なことだったのかもしれない。とはいえ、自分を高められる環境に身を置けたからこそその後も野球の名門を選択することが出来たのではないだろうか。
登戸の少年たちには、地元の中学校か新設されたシニアチームしか選択肢が無かった。インターネットなど存在しない時代だ。何が最善なのか選定するための術も無かったし、何よりそういう発想すら無かった。前述の彼もこのシニアチームに所属していたとしたら、どうなっていたのだろうか。だがこの時代には、その「If」が無いのである。
結局私は平野選手がどの程度の潜在能力を持った少年だったか、知る由もない。だからこそ、何も持たぬ少年がのし上がったサクセスストーリーなのか、私が知らないだけで実は素晴らしい才能を持ち合わせていたのかと言えば、分からない。実は私の知る彼など比較の対象にならぬ程圧倒的だったのかもしれない。
しかしプロ入り後の平野選手は、その時点では特別ではなかった。逆指名でプロ入りする選手は毎年居たが、レギュラーに定着出来た選手は限られている。通用する下地は有るが、足りないモノも有る。ただ、通用する理由は他の選手に比べると多いということだ。そこから先は、結局本人の努力次第なのである。
オリックスのサブで始まった野球人生で2年目にレギュラーを獲得し、セカンドから外野へのコンバート、そして大怪我を経て阪神に移籍し、再度セカンドへのコンバート。打順に応じてバントの回数が増えることも有った。チームバッティングを求められることも有った。
これほど変化を求められる選手は、そう居ないのではないだろうか。だがそうした要求に、平野選手は応え続けてきた。小さな体の子供に対して「そんなに甘かねぇぞ!」と言ったエピソードはかなり有名だが、冗談の中にもここまで生き抜いてきた矜持を感じるのである。
ただの「平野君」から平野選手にのし上がったストーリーであれば、こんなに美しい話は無い。地元での知られざる平野選手にどのようなストーリーが有るのか。かなり興味が有るところだが、書いている間にどうでも良くなってしまった。
そう。
プロとしての平野恵一選手の歩みは、それほど大きかったのである。
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