相撲人気が、地域を動かす。地方巡業の注目度が増す中で、災害に遭った丹波が巡業を強行する様を見届けてみた。後編。

相撲人気の現状と、被災地としての丹波が
どのように結びつくのか。
そんな欲求に駆られた私は、丹波に足を運んでた。
そして、この巡業が地域のものであることを
満員の大部分が丹波周辺の方であることから認識した。
年に一度のお祭りを、お祭り特有の緩い雰囲気で楽しむ。
大関横綱の登場で土俵に注目が増し、
甚句と初っ切りを行ったところでこの日のハイライトが用意されていた。
力士が3名、土俵に上がる。
そして親方がマイクを持ち、土俵の上で力士が行う
所作の意味を解説してくれるようだ。
懸賞を持つ要領で、所作に関する語句が紹介される。
それについて、親方が説明する。
そして、力士が実演する。
例えば、蹲踞。
腰を下ろし、膝を開きつま先立ちの状態で
相手と対面する姿勢のことだ。
剣道でも見られるこの蹲踞なのだが、
字を解体すると、「居」ることを「尊」ぶと読める。
相手が居ることに、そして相手と高めあえることに対して
感謝をすること、敬意を示すことををこの蹲踞に込めている、
という訳である。
例えば、蹲踞しながら手を2回叩き、手を揉む所作。
手を揉むのは手を清めるためであり、
手を叩き、開くことは武器を持っていないことを
示すためということであった。
そして、四股。
四股はもともと「醜」という字で表記されており、
大地に足を踏みしめるのはそうした邪なものを
振り払うという意味が有る、といった具合だ。
そして親方は、これらの所作の意味を説明した後で
実際にやってみるようにと促した。
流石に私はそれはない、と思った。
公衆の面前でいきなりこの所作を行うのは気恥ずかしいし、
実際に行わなくてもイメージは出来ている所作だからだ。
いい説明だっただけにちょっと残念だなぁ、と思ったその時。
丹波の方達はほぼ全員親方に続いて、これらの所作を行ったのだ。
これには私も驚いた。
そして、友人たちも一様に驚きを隠せなかった。
このような光景を見たことが無かったからである。
戸惑う私達。
ノリの良いお客さんだなぁと、友人はその光景をツイッターに掲載した。
この時は、その程度の認識に過ぎなかった
そしてその後十両の取組が進み、
横綱の綱を締め込む実演を行った時のことだった。
同じ親方が実演に関する説明をしていたのだが、
ここで横綱土俵入りの所作についても
先ほどの所作と同じ意味が有る、と語った。
更に、親方は続けた。
横綱土俵入りの際は、声を揃えて「よいしょ」と言ってください、と。
私はここで、はっとした。
これこそ、災害に見舞われた丹波に必要なことだったのだ、と。
他のスポーツでも、被災地に人気者が訪れることによって、
そして一流のプレーを見せることは一服の清涼剤となり、
明日への活力を生み出す意味が有る。
それはスポーツが持つ大きな力である。
その大きさは、スポーツが過去に積み重ねてきた
社会的貢献を見れば明らかだ。
だが、相撲にはこのような背景が有る。
身を清め、邪気を振り払い、相手に対して敬意を払う。
相撲はスポーツであって、スポーツではないと評されるのは、
単に勝敗を競うだけでなくこうした精神性が
あらゆる所作に込められているためである。
だからこそ、相撲は古来より王侯貴族に捧げ、国家や地域の安泰を祈り、
五穀豊穣を願うためにも執り行われてきた経緯が有るのだ。
災害に見舞われまだその傷が癒えぬ中執り行われたこの巡業は、
相撲本来の持つこうした文化的背景に想いを馳せ、
復興に向けて街が一体に成ることにこそ意味が有る。
心を合わせて周りに人が居ることに感謝すること。
身を清め、正々堂々と復興に向き合うこと。
そして邪気を振り払い、被災された方に想いを馳せること。
そのための丹波巡業だったのではないか、と私は気付かされた。
その日一番の大歓声は、横綱土俵入りで鳴り響いた。
相撲が相撲である意味を、私は丹波で噛み締めていた。
それはあの時の親方が、そして丹波の方達が教えてくれたことである。
本場所で横綱土俵入りを観る度に、
私はこの日のことを思い出すことだろう。
相撲の力と、丹波の力。
この二つが交差した時の美しい光景を、
私は今後も語り継ごうと思う。
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