白鵬が勝つ名勝負が持つ意味。名勝負を名勝負たらしめた、照ノ富士の存在の大きさを考える。
凄い一番だった。
素晴らしい一番だった。
こういう相撲が観たかった。
言うまでもなく、その取組とは白鵬照ノ富士の一番である。白鵬の狙いはただ一つ。そして、照ノ富士の狙いもただ一つ。
上手を取ること。取らせぬこと。
焦点はこの1点だった。
照ノ富士に上手を与えることは、極めて危険な状況を招くことを意味する。右四つも左四つも問わない。一応右四つが照ノ富士の形ということになっているが、左の合四つでも稀勢の里を下すのが照ノ富士の恐ろしいところである。
怪力の栃ノ心に左上手を与えても力と技で上回るのが白鵬ではあるのだが、照ノ富士が相手となると話は別だ。相手の重心を絶えず崩しながら、攻めながらも上手を与えない。こういう爆弾処理のような危険を伴う作業を、直径4メートルの円の中で遂行する。
照ノ富士は今のところ攻めて自分の形を作るタイプの力士ではない。この新進気鋭の新大関攻略を企てる、曲者達の繰り出す攻めを組み止める。昨年は「怪物」と謳われた逸ノ城でさえ1年経過すれば彼らの前では丸裸だ。そういう曲者達の上手を取って、次々となぎ倒す。照ノ富士の堅牢さがこの取口を実現するのである。
白鵬は照ノ富士の上手の脅威に晒されながらも、前みつを取り、身体を起こしてギリギリ上手に手が掛からない位置をキープする。完璧に計算された取口だ。少し態勢が異なるだけで攻めの推進力が失われる。それだけではない。身体が起こせないということは、上手を取るチャンスが拡大するということだ。
攻めながら守る。
この危険なミッションを、白鵬は完遂した。
野心を剥き出しにして襲い掛かる獰猛な白熊を、稀代の大横綱は見事に攻略したのである。
2人の横綱との対戦はどこか安定しているし、稀勢の里との対戦は想い入れが強くなり過ぎる。想いの強さが勝負のシビアさと強烈な対抗心を産み、それ故に物議を醸すことになるので稀勢の里との一番は相撲というよりはイデオロギーの対立の様相を呈する。ヒリつくような緊張感が有る反面、愛憎入り混じって複雑な想いを抱きやすいのが最近の傾向だ。
だが、白鵬照ノ富士の取組は単に相撲として素晴らしいのである。白鵬が第一人者だから成立しているのは間違いない。そしてここで重要なのは照ノ富士のことだ。白鵬は照ノ富士の強みを警戒したことによって、取組が極めてスリリングなものになった。白鵬の素晴らしさは語るに及ばずだが、照ノ富士の強さもそこまで来ているということだ。
そして私が一つ気付いたことが有る。
白鵬の勝ち相撲で印象に残る取組は久しぶりだということである。
先日友人が「北の湖の取組って、負け相撲ばかりなんですよね」と溢した。北の湖は当時傑出した強さを誇ったために、勝つことではドラマが創出されないところにまで来ていた。だが、そういう北の湖の相手にすると対戦相手としては常にドラマが生まれる。10回敗れても1回勝てば快挙だ。だからこそ、大相撲の名場面集で映る北の湖はいつも敗れているのである。
白鵬もそういう次元の横綱だ。白鵬が勝った相撲でカタルシスが生まれたのはいつ以来だろうか。恐らく朝青龍が居た頃まで遡ることだろう。
そういう大横綱としての孤独が、白鵬を記録との闘いへと突き進ませた。記録との闘いが、徐々に白鵬を蝕むことになった。だからこそ照ノ富士の成長は、白鵬の孤独を埋めることになるのではないかと思う。
残された時間がどれほど有るかは分からない。しかし、ようやく巡り会えた歳の離れた好敵手との闘いは、確実に我々を惹きつけることになる。名勝負を目の当たりにした私は、そんなことを考えたのだった。
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