外国人力士が与えてくれたものと、与えてしまった「呪縛」。栃煌山が挑む、外国人力士が向き合い続けた壁の大きさとは?

「日本人力士の最後の優勝から9年が経過しており…」
「旭天鵬は日本人です。」
…このやり取り、何度見たことか。まず話題になると「日本人力士」と「日本出身力士」を言い間違えないか、ここにヒヤヒヤする。そして何より、「ファンは日本人力士の優勝を望んでいる」というロジックが出てこないか。言ってしまうと頭を抱えるしかない。
人種差別。
外国人力士へのリスペクト。
そして配慮。
近年大相撲は外国人力士によって支えられ続けてきた。外国人力士が大相撲にもたらした功績は素晴らしいものが有る。技術的な面は勿論、愛すべきキャラクターや国際交流など、相撲界は外国人力士によって繁栄してきた。
だが、こうした言葉が出てしまうと外国人力士が与えてくれた全てを否定してしまう。仮にそういう想いが無くても、そういう問題ではない。ここ最近の大相撲への外国人力士の貢献に対して感謝してもしきれないと感じている方の中には外国人力士へのリスペクトに欠けた言動に対して非常に厳しい方も多く存在している。
これは致し方ないこととも言える。
それほど外国人力士の貢献は多大なものであることは間違いないし、言い換えると日本出身力士が貢献できていないのだから。外国人力士の素晴らしさを語る上で、逆の論法として日本出身力士の不甲斐なさをセットで語ることも有る。日本出身力士に裏切られ続けながら、それでも日本出身力士に期待する行為そのものが非生産的なことなのかもしれない。外国人力士がこれほど素晴らしいのに、不甲斐ない日本出身力士への期待を抱き、日本人が皆そう思っていると断定することは外国人に対する差別だと言われても仕方が無い。
単にオリンピックを観ている感覚で、より身近な対象として日本出身力士に肩入れしているつもりで「日本人力士に期待しています」と言ったつもりが、そうした歴史から不愉快に思う方も出て来てしまう。ちなみに私が今までお会いしてきた日本出身力士に期待している方は、決して差別意識から彼らを応援していることは無かった。当然外国人力士にリスペクトしている上で、分かった上で、それに対抗できる郷土力士としての日本出身力士に期待している。それ以上でもそれ以下でもないのである。
外国人力士の素晴らしさ、凄さこそが、相撲に一つの呪縛を与えてしまったのかもしれない。外国人力士が強いからこそ、日本出身力士は9年あまり優勝できていない。外国人力士が素晴らしいからこそ、日本出身力士ではなく外国人力士が大相撲を守っている。
外国人力士に感謝するがために日本出身力士への期待に対して不快感を抱くことも、そういう反応が有ることに対して配慮し、配慮に配慮を重ねることに疲れることも、この状況だからこそ生まれた現象である。
ただ、私はだからと言って今場所の栃煌山に呪縛を解いてほしいと言いたいわけではない。もう少し相撲を楽に観たいという想いも有るし、そうした想いを供養してほしいという想いも当然有る。だが、そういう動機で栃煌山に期待するのは「巨人が優勝すると経済効果が~」と言うことによって本来の自分の意思である「巨人に優勝してほしい」という想いを正当化するタイプの方と同じではないか。
あくまでも、結果として呪縛が解ければそれでいい。呪縛が解けなければ、そういう時代は続く。それだけの話だ。
とはいえ、鶴竜と白鵬に連勝することによって栃煌山は大チャンスを掴んだ。ここからだ。大相撲を支え続けてきた外国人力士達はここからのプレッシャーを跳ね除けて栄光を掴んだ。栃煌山にそれが出来るのか。それが問われているのである。
優勝争いの観点から考えれば、明日の豪栄道戦は落とせない一番だ。落せない相手として、大関が登場する。これが如何に凄い状況か。今までは勝てば褒められる状況だ。だが、優勝の重みはこういうところに有るのだと思う。上位との対戦が大方終わっている栃煌山にとっては相対的にこれからの対戦相手の難易度は下がっている。だが、そこで結果が出せるかと言えばそうではない。
外国人力士が大相撲に与えた呪縛を解くには、彼らが守り続けた大相撲の重みに向き合わねばならない。だからこそ、栃煌山のこれからが見物なのである。これまで白鵬や日馬富士達が当然のように乗り越えてきた壁の大きさを、我々は栃煌山を通じて知ることになるのだから。
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