白鵬がもたらす大相撲の危機とは?後編
大相撲が長い歴史の中で人気を維持してきたのは、競技としての質を高めながらも多くの人に分かるキャッチーさを両立してきたからである。
白鵬がもたらす大相撲の危機とは?前編
勝敗が分かりやすく、しかも投げも押しも豪快且つ爽快だ。相撲とは、どう転んでも楽しい結末しか用意されていない競技なのである。
だが、そういう相撲のキャッチーさが今まさに曲がり角を迎えている。その中心に居るのは、白鵬である。
相撲の楽しい結末は競技としての性格上保たれるものであるはずだったのだが、ここ数年白鵬が見せてきたのはそうした相撲の否定である。実は相撲というのは、観る側に寄り添う形で様々な規制を自らに課してきた競技だったのだ。
カチ上げ。
張り差し。
立ち合いの駆け引き。
そして、変化。
確かにこれらはルール上規制されるものではない。相手との力関係などによってはアリとされるケースも有る。だが、ナシとされるケースも当然ながら存在するのである。
そして、白鵬はナシとされるケースに於いても規制を掛けずにあらゆる手段を取っている。キャッチーな結末を期待しながら、肩すかしを喰らってしまうのである。しかも、その肩すかしが全て白鵬に味方をするとなると、卑怯と解釈する方も出てしまう。
分かる人が観れば相手に手落ちが有ることは分かる。だが、観ている大半の方がそういう解釈を出来る訳ではない。そもそも相撲というのは解釈が不要で、観たままの結果を楽しむことが出来るからこそここまで生き永らえてきた競技なのだ。
これまでの歴史の中で、実は先人たちは状況の中でアリとナシを取捨選択しながら相撲のキャッチーさを保ち続けてきたわけだ。つまり勝利よりもキャッチーさを優先し、楽しませることに価値を見出してきたのが大相撲なのである。
だが今の白鵬の相撲は、勝利に価値を見出している。それ故に、観る者に降りていくことは無い。相撲の中のキャッチーさを排し、勝利に邁進する相撲は「白鵬スタイル」とも言えるだろう。
批判を覚悟の上で鬼になる取組は中々観られるものではない。だが、そういう相撲を観たいかというとそうではない。覚悟に価値を見出す方も居るだろうが、ついていけない方も一定の割合で出てしまう。それは、多くの方が大阪場所の優勝インタビューを見ずに退場したことからも分かると思う。
エンターテイナーとしては2点。
勝負師としては5億点。
それが今の白鵬である。
白鵬は、相撲を競技として進化させていることは間違いない。だが、進化と共にキャッチーさをスポイルしていることも間違いないのである。「白鵬スタイル」は、格闘技が辿ってきた負の歴史に追従しかねないリスクも有るのだ。
ではこの危機にどう向き合えば良いのか。
方法は二つある。
一つは、白鵬に先人と同じ決断を求めること。
もう一つは、白鵬に周囲の力士が合わせることだ。
白鵬スタイルが先鋭化される中で、事有る度に白鵬は批判されてきた。しかしそうした声が届くことは無かった。嘉風を血まみれにしても、井筒親方を負傷させても、白鵬が変わることは無かった。
だからこそ今求められるのは、後者である。
いつまでも打撃を喰い続けてはいけない。
そして、変化を喰い続けてもいけない。
そう。
「白鵬スタイル」に屈するからこそ、結末が退屈なのだ。
変化を喰わなければ、取組は続く。打撃を受けなければ、凄惨な結末にはならない。厳しい言い方をすると、白鵬に対する研究が足りないのである。
例えば、白鵬を相手に変化する力士は誰も居ないし、カチ上げをフルパワーで見舞う力士も居ない。通じないからなのか。覚悟が足りないからなのか。そもそもそういう発想が無いからなのか。白鵬が翻弄することは有っても、白鵬を翻弄する力士は居ない。
強い横綱に勝つことは、既にキャッチーな出来事である。強い横綱のオーソドックスな取組を求めながらも、ハプニングを求めているのはそういうことなのだ。
白鵬を全力で倒しに行く力士の存在が、大相撲の危機を救う。5月場所に覚悟を見せる力士は、果たして現れるのだろうか。いや、現れてもらわねば困るのである。
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