相撲人気過熱の功罪。規制がもたらすのは秩序か、距離か。
私はその日、6時半に両国国技館に到着していた。
稽古総見のために限りなく始発に近い電車を乗り継ぎ、危うく普段どおり飯田橋で降りそうになりながらもどうにか乗り過ごさずに両国に辿り着いた。この3年間で朝早い相撲時間に合わせて行動するのはそう珍しいことではなくなったのだが、辛いものは辛い。眠いものは眠い。そこは変わらないのである。
そして、相撲が面白いのも変わらない。だから私は飽きもせず相撲のために何か苦労をしているのである。そこに行けば力士がいる。そして相撲がある。恐らく私のこのような行動様式は、これからも変わることはないのだろう。
だが、大きく変わっていることも有る。
6時半の国技館は、これまで観たことが無いほど人で溢れ返っていたのである。
正面入り口から入り待ちをする通路まで4人1組の列が続き、私が最後尾に着いた時には列が再度出口側に伸びたところだった。聞くところによるとその時既に3000人は居たという証言も有った。
只の稽古のために3000人もの相撲ファン達がほぼ始発で足を運ぶ。本場所であればまだしも、今回の稽古総見は誰も宣伝していないものだ。言わば相撲人気を支えるコア層と言って良いファンが、これだけ数を増やしている。
私はこの様子を見ながら、今の大相撲人気の凄さを再認識した。国技館のマス席は埋め尽くされ、二階席も半分は埋まっていた。メディアの発表によると、その日7000人が駆けつけたということだった。稽古終了後に、募金箱を持つ力士たちの元にファンが殺到する様を見ながら、夜勤明けで両国に足を運び、朝から相撲が観られた4年前のあの頃のことを思い出していた。
だが一方で、相撲人気の高まりにリンクした変化を数日前に私は経験していた。そう。相撲部屋で稽古が観られなくなっていたのである。
チャイムを鳴らしても、誰も出てくれない。力士たちの息遣いがドア越しに感じられるのに、飛び込みの稽古見学をさせてもらえなかったのである。それも、複数の相撲部屋で。
3年前に私は清澄白河の町をビクつきながら歩き、チャイムを鳴らして稽古見学をして以来、この有り難い文化に甘え続けてきた。東京場所が有れば、必ずどこかで稽古をしている。本場所の非日常とは異なる日常の光景もまた、魅力的なのだ。
関取は部屋の中ではリーダーであり、指導者でもある。入門したての力士たちはそういう兄弟子の背中を見ながら、相撲だけではなく生きる姿勢を学ぶ。相撲部屋は単なるアスリート養成所ではなく、人を育てる場なのだということを稽古見学を通じて学んだのである。
このような経験は、本当に有意義だった。現場に足を運んで相撲を感じることによって、私は相撲との距離を縮めたと思っている。テレビを通じて感じていた相撲と現場をすり合わせることで、答え合わせをしながら新たな相撲観を養っていったのがあの頃だったのである。
部屋には部屋の葛藤があるのだと思う。聞くところによると、マナーの問題などが有り、稽古に支障をきたすケースも有るのだという。そのため、かつてはチャイムすら鳴らさずに見学を受けてくれた相撲部屋も今では完全予約制ないしは後援会のみ、中には完全に禁止しているところも有るそうだ。
力士との距離の近さ、おおらかさは大相撲の大きな魅力だ。だが、おおらかさに甘えて力士や部屋に迷惑を掛けるとすれば、スタンスを変えざるを得ないだろう。
確かに残念だ。今私が相撲に出会ったとしたら、ここまで深入りしていたかは分からない。それほどこの数年現場で得た経験は貴重なものだったのである。そしてそれは、相撲界のおおらかさに甘えることで得られたものだ。
今の環境は、すべてが封鎖されているわけではない。だが、敷居が高くなっているのは間違いない。それを乗り越えるには熱意か、良くも悪くも鈍感であることが求められる。
深入りすることによって、コア層は作られていく。しかし深入りするには、何かの助けが必要であることは事実である。規制は秩序を生み出すが、同時に距離も生み出してしまう。
相撲界が与える姿勢を見せてきたからこそ、今の人気がある。とはいえ今同じことが出来ないからこそ、規制という道を歩み始めている。となると見る側が積極的に距離を縮めようとするだけの熱量が、大相撲には求められるのである。
おおらかに時代は終わった。ファンには品格が求めれている。そして、大相撲にはおおらかさに頼らない魅力が求められている。
なぜなら今は、2016年なのだから。
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