最高の未来と絶望の狭間で、稀勢の里の4日間を受け止めよう。
大関としての勝率が7割を超えた。
幕内で優勝ラインの13勝を5度経験した。
データで見れば最強大関という意見さえ有る。
それも、様々な指標を組み合わせてのことだ。
それでも、この最強大関候補について強いという言葉で表現する人は少ない。ここまで注目を集めてきたのは、その裏側に有る弱さである。
勝負どころでのスキャンダラスな敗北。
序盤で見せる、格下に対する脆さ。
脇甘。
腰高。
苦笑いを浮かべながら、物足りなさを口にする。期待すると裏切られるとぼやく。しかし彼のことを話す時、ファンもアンチも饒舌になる。
強さと弱さが日本中にこれほど知れ渡っている力士は他に居るだろうか。歴史的に考えても、これほどそのコントラストが目立つ力士は小錦くらいしか思いつかない。本来であれば弱さが有っても、強さで補って余りあるほど彼は強い。
差し手争いに敗れて引きに失敗する鶴竜を観て、精神的な弱さを猛烈に批判するだろうか。隠岐の海に真っ向から挑んで爽快なほど完敗する日馬富士を観て、横綱失格の烙印を押すだろうか。終盤戦を前にして既に2敗している横綱でさえ、彼ほど厳しい目に晒されることは無い。
ミスをしでかすことも、格下相手に完敗することも、不確定要素の多い相撲という競技の性格上それはどうしても起きてしまう。我々はそのことを分かっている。そして、本来優勝ラインが12勝から13勝というケースも多いことを。
客観的に見て彼が強いことも知っている。そして、他の力士よりも要求水準が高いことも知っている。知った上で、我々は彼に求めている。
つまりその要求水準というのは歴代最強大関候補たちでもなければ、日馬富士鶴竜という現役横綱でもない。そう。白鵬なのである。
いくら大関として優秀だということを主張しても、他の横綱と同水準以上で闘えていても、結局白鵬が強過ぎるために大相撲全体に閉塞感が漂い、数年が経過した。たまに日馬富士が優勝しても、鶴竜や琴奨菊が扉を開いても、歴史が変わる期待感は遂に生まれなかった。それが何故かは分からない。二人の横綱に対する期待は、また別のところに有るのである。
そしてそういう類の期待を、彼には抱いてしまうのである。横綱にすら抱かない期待を大関に掛けるのは、本来であれば変な話である。だがそういうことを繰り返し、期待に応え、最終的に裏切るということを繰り返してきた。
白鵬が居なければ、もっと簡単に優勝できたのではないかと思う。そして、もっと早く第一人者に成れたのではないかと思う。しかし仮にそうだったとしても、彼は恐らく今ほど多くの歓声を集めなかったのではないかと思う。
高過ぎる壁に挑み、跳ね返され、絶望を味わい、それでも前を向いて闘い続ける。もどかしい道程ではあったが、回り道をしながら少しだけ、でも少しずつ強くなってきた。そういう苦しい成長物語を、我々は共有し続けてきたのである。
白鵬が居たからこそ、この物語は魅力的なのだ。この史上最強横綱を超えようとする、強さと弱さの同居した人間ドラマは確かに辛い。3か月後には必ずハッピーエンドが待ち受けている連続ドラマとは異なり、このドラマには終わりが見えない。だが、終わりが見えないからこそハッピーエンドを渇望する。
小さな成長を重ねて遂に下半身の強さを手に入れた彼は、攻め急がない。急がなくても、ワンチャンスにこだわらなくても、今なら相手を崩せる。仮に攻められても、土俵際に追い詰められても、簡単に体幹が崩れることはない。攻めにも守りにも安定感が生まれたのは、精神的な理由だけではない。
巡業終了直後の田子ノ浦部屋には、黙々と四股を踏む彼の姿が有った。申し合いをする訳でもなく、ただ四股を踏み続けていた。四股だけでこれほど汗をかくなのか。私は驚いた。驚いたのは汗の量だけではない。その四股は、今まで見たことが無いほど腰が降りていたのだ。
一人の力士のストーリーがここまでクローズアップされるのは、相撲の歴史上でも稀なことだ。ハッピーエンドに辿り着きそうで、いつも最悪のバッドエンドが待ち受けている。繰り返し経験することによって、この物語への期待はあまり抱かないようになってしまった。
3年前の白鵬との全勝対決の時は、急成長に感激しながら歴史が動くことを期待した。2年前の白鵬との1敗対決では、前年のリベンジを期待した。そして先場所では、琴奨菊に続くことを期待した。それに比べれば、今場所の期待は随分落ち着いたものだ。
予防線を張りながら、過去の失敗から過度の期待を抑えながら、それでも期待して観ている。両手で目を覆いながら観るほどの緊張は無いが、毎日どこかで悪い結果が出るのではないかという不安に苛まれている。明るい未来しか見えないという訳ではないが、かなり高い確率で良い結果が出るのではないかと期待している。それは以前と比べると地に足の付いた不安であり、地に足の付いた期待だ。
3月に日馬富士に敗れた。何かが変わることを期待して、結局閉塞感は打ち破れなかった。絶望感に苛まれながら、それでも諦めきれなかった。
今場所もあと4日間で更なる絶望が待ち受けているかもしれない。もう明るい未来だけは見えないところまで、私は絶望を共有している。何が有っても受け止める準備は出来ている。
しかし、最高の未来を受け止める準備も同時に出来ている。それは私が今、最も待ち望む未来だ。その光景を目にした時、どのような想いが去来するのだろうか。
これほど大相撲に気持ちを入れて観ることはもう無いかもしれない。それほどこのストーリーは魅力的なのだ。絶妙なバランスでポジティブとネガティブを乱高下する物語など、作れるものではない。もう一度体験したいと思いながら、もうあんな苦しい想いはご免だとも思う。
そういう体験が出来る今を、私は楽しみたい。
稀勢の里の4日間を、受け止めよう。
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“最高の未来と絶望の狭間で、稀勢の里の4日間を受け止めよう。” に対して1件のコメントがあります。
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今場所も賜杯には届きませんでしたね。
私は以前「稀勢の里は立合いで動く相撲も取るべき」と書き込ませていただきましたが、先場所琴奨菊ではなく白鵬(もしくは日馬富士)に対して変化をしていたら・・・と思わずにはいられません。
また、今場所の白鵬戦も投げの打ち合いになったときに上手にこだわるのではなく小手投げやとったりを打っていたら・・・
意外にも新世代の台頭が遅れているため、彼にはまだ優勝のチャンスは十分にあると思います。ただ、横綱は難しいでしょう。
また、本題とはずれますが、日馬富士と安美錦以外の現役力士は白鵬に対して何も工夫もなくただぶつかっているように感じます。真っ向勝負は確かに美しいですが、結果として「白鵬一強時代」を生じさせていることを考えると、かなりもどかしく感じます。変化は足腰のよい彼には通用しないでしょうが、足取り狙いやとったり(2010年初場所13日目で魁皇がやりました)をする、という考えは挑戦者の頭の中にないのでしょうか。それとも場所後の稽古でしごかれるのを恐れているのでしょうか。