這い上がれ、稀勢の里。

見る前に、結果を知った。
その取組を見ようとはとても思えなかった。
今日の相撲さえも、見る気は起きなかった。
そう。
今日の稀勢の里である。
仕事をしながらも、気が乗らなかった。連休明けだったので、仕事は山ほどある。だが、没頭できなかった。声のトーンが重いと指摘されて初めて自分がその結果を引きずっていることに気づいた。
最初は優勝が無くなったということに対して、そして、春場所の見所がひと段落したことを考えて、大変残念な気分になった。あそこまで上手くいっていたのに、一つの敗戦によって全てが台無しになったことがショックだった。
だが、脱臼というワードが踊る中で、事の重大さに気づいた。これは春場所の優勝とか、そういう次元で済む問題ではない。完成しかけた、横綱としての稀勢の里の相撲が壊れるかもしれない。
いきなり私は、不安になった。もうあの相撲は見られないのか。仮に見られたとしても、それを15日間続けることは難しいのではないか。完成しかけた、稀勢の里の横綱と相撲はもう見られないのだろうか。
相撲の神様が居ないということを、私はその時に思った。もしそのような者が居るならば、そもそも12回も優勝を掴み損ねさせるようなマネはしないではないか。そしてようやく掴んだ横綱初場所で、このような酷い仕打ちはしないのではないか。私は憤った。
だが、その一方で考えた。
もしこれが1場所遅れていたら、どうだったのだろうか。
あれほど望んでいた優勝も、目前で潰えていた。夢にまで見た横綱の座も、手中に収めることはなかったかもしれない。怪我と共に生きる大関として、力士人生を終えていたかもしれない。
考えて欲しい。もし大関時代にこの怪我をしていたとしたらどうだっただろうか。仮に筋断裂だとしたら、復帰までどれだけの歳月を要していたのだろうか。大関の地位を守ることは出来たのだろうか。強行出場していたならば、元の相撲が戻る可能性は有ったのだろうか。
稀勢の里は横綱だからこそ、治す時間が十分与えられる。長期間の休場は、直後の成績次第で進退という話に発展することにはなるが、このようなチャンスは横綱でなければ得ることが出来ない。
怪我をしたことは不幸なことだ。だが、タイミングを考えると最悪ではなかった。むしろ、悪い中では良い部類にさえ入るのではないだろうか。私は考えを整理しながらそんなことを考えていた。
稀勢の里は、不運な力士だと思う。日本人力士として永らくナンバーワンの存在でありながら、辛酸を舐め続けた。これほど外国人力士が多い時代でなければ、もっと早く横綱になっていたかもしれない。そして、過剰な期待を集めることも無かったのかもしれない。
過剰な期待が稀勢の里を蝕み、大関昇進が遅れた。先代の親方に大関昇進の姿を見せることは無かった。そして、綱取りが遅れたことによって若の里が土俵入りの脇を固めることも無かった。現役生活が長くなるに連れて、勲章ではなく傷ばかりが増えるようになった。
ただ、それは不運とは言い難いとも思う。
こういう時代だからこそ、稀勢の里は強くなれた。モンゴル人力士たちが席巻する時代だからこそ、現状に甘えることなく素晴らしい相撲が取れるようになったのだと思う。
更には、こういう時代だからこそ、稀勢の里は特別な存在になることが出来た。優勝を重ねることは力士として目指すべき姿だとは思う。だが、優勝を重ねたどんな力士よりも、その一挙手一投足を注目され、期待を集め、生き様に共感を集める。そういう存在になることが出来た。
稀勢の里の土俵人生に於けるあらゆる事象は、コインの表と裏が有ると私は思う。良いことばかりではないが、悪いことばかりではない。今起きている不運が明日の何かに繋がるのであれば、必ずしもそれは不運とは言えないのではないかと私は思う。
この怪我で、稀勢の里は終わるかもしれない。だが、この怪我を乗り越えて更に素晴らしい力士に、人間になるかもしれない。どちらになっても、それは稀勢の里の人生だ。
いかに殉じるか。
いかに乗り越えるか。
苦しみもがく姿にも、新しい境地を切り開く姿にも、感じるものがあると思う。そういうドラマを目の当たりにすることにこそ、相撲観戦、いや、スポーツ観戦の醍醐味があるのではないかと思うのだ。
怪我は不運なことだ。
だが、不幸ではない。
さぁ、ここからだ。
這い上がれ、稀勢の里。
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