稀勢の里に落胆できない辛さ。俺達を投影し、共に乗り越えられぬ葛藤とは?

嫌な予感が的中した。
いや、稀勢の里に関してはいつものことだ。嫌な予感の無い状態で悪い結果に遭遇することはほぼ無い。
とはいえ、覚悟している結果が出てしまった。またしても私は試されることになった。厳しい結果にどう向き合えば良いか。距離を置くのか、本気で信じるのか。
あの白鵬との全勝対決と、千秋楽で琴奨菊に惨敗したあの時から始まった試練に、また直面することになってしまった。はずだった。
だが、違ったのだ。
先場所から稀勢の里の取組については受け止め方が違ったのである。
稀勢の里が敗れると、込み上がる感情は「落胆」だった。この落胆こそが心をかき乱し、かき乱された時に己が問われる元凶であった。落胆し、自分を保てない自分が稀勢の里だからこそ、目を離してはいけない。逃げてはならない。受け止めなければならない。
それが本当に辛かったのだ。
この苦しさから逃れたいと思いながら、苦しさに向き合い、自分も共に乗り越えていく。相撲を観ているだけの筈なのだが、相撲を超える何かが確実に有った。
しかし、怪我をした後の稀勢の里が敗れた時に芽生える感情は「落胆」ではなく、「心配」だったのである。
稀勢の里が敗れた時、これまではその大多数が彼の不甲斐なさによるところだった。弱さを乗り越えられていないという現実を突き付けられることこそが落胆の最大の要因だった。
怪我をした後の稀勢の里の敗因は、違う。
稀勢の里の不出来も有るかもしれないが、素人目に見ても左が使えないところに敗因が有る。左が使えないのは、怪我が完治していないからだ。言い換えると、稀勢の里は怪我をしているから敗れている。
稀勢の里は自分に敗れたのではなく、怪我に敗れた。その事実を突き付けられると、落胆はそれほど無い。不出来な部分についての落胆は有るが、その程度の話だ。
むしろ深刻なのは、心配の方だ。
向き合うべき対象は、心配の種である怪我だ。だが夏場所に引き続き、稀勢の里は己の相撲が取れない。3月に完成したかに見えた素晴らしい相撲は影を潜めている。
3月に故障し、7月にまだ本来の自分を取り戻せずに居る。本来ならば休場して完璧に治したうえで復帰すべきところだが、彼はそれをしようとしない。
弱さと向き合うことは、大変つらいことだ。だが、怪我が治るか、治らないかという観点に比べると辛いことではないのかもしれない。何故なら、弱さは努力次第で克服できる可能性が有るが、怪我は治らないかもしれないからだ。
そして更に困ったことは、弱さは俺達の中にも居るので共に闘えるのだが、怪我は共に乗り越えられないことである。
俺達を投影し、俺達と共に闘うからこそ稀勢の里の物語は魅力的だった。だが今の稀勢の里とは共に闘えないからこそ、落胆することすら出来ないのである。出来ることは、その様子を眺めて心配することだけだ。それが辛いのである。
まさか稀勢の里に一喜一憂していたあの頃のことを懐かしく、羨ましく思う日が来るとは思っていなかったが、私は今間違いなくそう思っている。
ならばいっそのこと、稀勢の里に落胆したい。だが、それすらも叶わない。心配しか出来ない今は、ただ辛い。
あの頃の私に落胆できることの幸せさを説いたとしたら、全力でその辛さを反論されることだろう。
今の稀勢の里を観ることは、別種の葛藤が有る。そしてそれは、ポジティブな感情を抱きにくいものだし、ポジティブな将来が描きがたいものだ。
何とか良い相撲を取って欲しい。
それが私の願いである。
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