「恵まれた体格」は本当に恵まれているのか?後編
体格の小さい者と大きい者が対決する、
不平等さこそが逆に対立構造を生み出し、
持たざる者が持つ者を打倒することに
カタルシスを覚える。
対立する2者が居ればより共通点が多い立場に肩入れし、
そしてそれが殆どの場合は持たざる者への肩入れなのである。
持たざる者というのは、相撲で言えば
体格の小さい者のことである。
それは何故なら相撲は体格が大きければ大きいほど
優位性が有るスポーツだからだ。
だが、私はここで敢えて、
相撲をする上で絶対的な優位性を誇る
体格の大きい者というのは、実は
恵まれてはいないのだということを提唱したい。
それは何故か。
確かに、体格の大きい者はそれだけで
優位性が有ることについては事実である。
プロレスのリングよりも小さい、
円形の土俵の外に相手を出せば勝利。
足の裏以外が地面に付けば負け。
このようなルールの性格上、
外に出すにはそれ相応のパワーが必要だし、
また出されないためには重量が必要となる。
つまり、体格が小さなものが大きなものに勝るには
相当な努力を要するが、
体格が大きいことはそれだけでも既に
能力と言えるわけである。
小さなものに肩入れする、持たざる者は
既に身体が大きい時点で何をしなくても持つ存在に対して
並々ならぬ対抗意識を燃やす。
持たざる者が強いのは、
自らが持たざる者であることを認め、
弱者としての生き方、戦略を常に考えて
持つ者に絶えず対抗しようと考え、
そして行動し続けるからである。
だが、体格に恵まれた者は
それだけで既に有利になってしまう。
多少ミスをしても、それは別に
致命傷には成りえない。
どんなに相手に技量が有っても、
どんなにスピードが有っても、
翻弄されても捕まえてしまえば
大抵の場合は大きい者が勝ってしまう。
このような経験を重ねてしまうと
体格に恵まれた者はどうなるか?
そう。
努力を怠るのである。
勝つために考えなくても、キチンと稽古しなくても
それでもそれなりに勝ててしまうとなると
そのスタンスから抜け出せなくなる。
こうしたやり方では当然のことながら、
どこかで壁に当たってしまう。
壁に当たった時こそが、その人の
本当の力が問われるのであるが
努力する習慣が既に無い人間が
いい歳になってから努力したり、
考えたりする習慣を身に付けることは
大変な困難を極める。
努力の仕方を覚えられずにいると、
壁付近を行ったり来たりすることに成る。
気が付くとその地位で敗れることに対して
安住する意識が芽生えてくる。
この時点で、力士として終わるのである。
体格に恵まれているだけで、
壁に当たる機会を喪失してしあう。
努力する才能と体格は反比例する、
というのが私の持論なのだが、
恵まれた体格をもつことこそが
長い目で見ると実は壁を乗り越えるための
ノウハウを身に付けられないという
結果を招いてしまうのである。
体格に恵まれた者が努力しないことを
歯がゆく思う人が居るかもしれない。
だが、やらなくても出来る、という経験を積んだからこそ
彼らは最終的に持たざる者に勝てないのだとすると、
実は体格に恵まれていることこそ、
恵まれていないと言えるのではないだろうか。
特に、幕下というのは壁を乗り越えられない者達が
乗り越えるためのノウハウを見つけようとするが見つからない。
世間的には恵まれていると思われている者たちが
ノウハウを見つけることすらできないという、
逆の意味での苦しみを味わい続け、
そして何者にも成れずに挫折していく。
恵まれたことが結果として挫折を招く。
皮肉なことではないだろうか。
努力せずに結果が出せている者を見た時、
容易に想像できるその末路を考えると
早い段階で修正できないものかと思うのではあるが、
結局それは無理なのである。
恵まれているとはどういうことか。
壁を乗り越えるために常に考えられる環境に
身を置くことではないかと
幕下で燻る体格に恵まれた力士達を見て私は思うのだ。
まるで把瑠都と琴欧洲特集でしたね。笑
こんにちは、別に毎回反論したいわけではないのですが、確かに管理人さんの言われていることは概ね賛同できます。確かに個別的に体格の恵まれた人がそれに安住すると言うことはあるでしょう。ただそれは個別論であって、体格に恵まれてもそれに安住しない人もいるわけですね。
結局その人が今の地位で納得しているのかということで、納得していなければ体格の大小に関わらず努力するでしょうし、やはり努力の人舞の海は絶対横綱になれないけど、努力をしない北尾は横綱になったわけです。
こう考えると相撲にとって大切なのは欠乏だと思います。最近無くなったジョブズは「ハングリーであれ、愚か者であれ」といっていましたが精神的飢餓が現状に満足せず自己超克へと促します。こう考えると「一定の体格・意欲が恵まれている」のであり、管理人さんの仰るとおり「一定の体格」では駄目ですが、「一定の意欲」でも駄目であるということがわかるのではないでしょうか。
>なの。 さん
コメントありがとうございます!
確かに2人とも、大関に成るまでは壁らしい壁は
有りませんでしたからね…
特に琴欧洲に関して言うと、力士に成る前からして
既にその手の体験をしているわけで。
責任ある立場になったあとで殻を破れない
っていうのは辛いですね。
そういう意味で言うと幕下で燻っている力士は
まだ幸せなのかもしれません。
>なごやんさん
コメントありがとうございます!
おっしゃる通りです。
強いという結果は、努力というプロセスを
経る場合とそうでない場合もありますし、
また、体格に恵まれていてもハングリーに
成れる人も居ます。
稀勢の里は正にその好例ですね。
体格が良いというだけでアドバンテージに成らない
そういう環境に身を投じることこそ、
恵まれた体格で且つ努力する能力を身に付けるために
必要なのかもしれません。
でもやっぱり何もしなくても
結果が出る体験をすると、
苦しい思いをして成功を掴もうという
発想にはなりにくいんでしょうね。。
それが残念です。