「恵まれた体格」は本当に恵まれているのか?前編

スポーツを観ていると
小さい者と大きい者との対決という構図になることが有る。
ボクシングや柔道など、
体格の差が致命的な差を生む競技については
誰もが同じラインで戦うために
体格面での不均衡が生まれないような
ルールが定められている。
しかし団体競技については
言い始めるとキリが無いので
こうしたルールは存在しない。
体格とは先天的な要素であり、
そこに本人が介在する要素は一切無い。
だからこそ、どうしても
有利な立場と不利な立場が生まれてしまう。


不平等であることは、勝敗を
本人の努力と異なるところで決定しかねない
要因になり得るので、本来は是正されるべきではある。
だが、不平等であるからこそ
小さい者は大きい者に勝つために
様々な工夫と努力をすることになる。
不平等な状況の中で持たざる者が
持つ者に対して立ち向かい、そして
たまに勝つという筋書きは
実はスポーツを観る者が自らを投影しやすい。
なぜなら、観る者の大部分が持たざる者であり、
今までの人生経験の中で優位に立つ経験よりも
優位に立たないからこそどう対処するか?
という立場に立たされ続けているからである。
それ故、小さい者と大きい者が登場すると
自然と小さい者が支持されるのである。
小兵力士は自身の生き方を映し出し、
持たざる者の弱さと強さを体現する。
持たざる脆さ故に敗れれば「次こそは」と思うし、
逆に積み重ねた強さで勝利を手にすれば
そこには大きなカタルシスが生まれる。
また、持たざる者への自己投影は、
ほぼ真逆の感情を抱かせることになる。
そう。
真逆の立場に対するアンチ的な感情である。
持つ者なのに、期待通りの活躍をしない。
持っているのに、持たざる者よりも努力が足りない。
恵まれている者に対する羨望もさることながら、
持たざる者が生きていくための工夫を
何故重ねないのか?ということなのだ。
持っている者が持たざる者の工夫を重ねれば最強なのに
努力次第で出来ることを全くやらない、
頭を使わない、というのが解せないという感情は
非常に良く判る。
だが、この不満に対して実は明確な回答がある。
「恵まれた体格」は本当に恵まれているのか?
ということなのだ。
続く。

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