相撲の応援に思う。

愉しい15日間が終わり、相撲の無い日常が戻ってきた。
相撲の情報に触れることが今日を境に出来なくなる。
相撲版の祭りのあと的な問題については
個人的に「16日目問題」として認識している。
今場所の総括が増えたり、
大関昇進を喜んだり、
期待の若手の来場所以降に思いを馳せたり。
かく言う私も、夜勤を終えて
本場所の熱気をそのまま引きずりながら
単に総括するのではなく、
日々相撲を見ながら小骨が刺さったような
違和感を覚えたことに対して
考えを整理してみた。
そう。
相撲の応援問題である。


幕内の相撲が盛り上がる中入り後、
人気力士が土俵に上がると
「おや?」と思う応援をしている人が増えた。
大人数で力士の名前をコールする。
力士の名前が大きく書かれた紙をワサワサを見せる。
いずれもかつては見られなかった光景だ。
正直な感想を述べると、こうした応援の在り方に
最初は少なからず嫌悪感を含む違和感を覚えた。
というのも相撲には相撲独自の見方が有り、
これを守ることがマナーであると考えてきたからである。
この独特の見方こそ、相撲を他の競技とは異なる
異世界へと誘う重要な要素になっているのだと感じる。
独自の要素を普通の演出に置き換えると、
途端に素っ気ないものに落ちていく。
例えば、相撲の呼び出しを
例の言い回しではなく普通に読み上げてしまっては
相撲感は急落してしまうし、
行事が洋装になってしまっては
300年続いてきた日本文化としての側面が
途端に失われてしまう。
相撲を取り巻くあらゆる要素が
実は日本文化や伝統を継承しており、
それぞれが存在するのには相応の理由が有る。
それが国技とスポーツイベントの決定的な差であり、
近代化する中で失われた日本文化を
国技館の中でガラパゴス的に感じることこそ
相撲を楽しむ醍醐味と言える。
こうした側面を考えると、
最近頻繁に目撃される応援スタイルというのは
スポーツの応援方法なのである。
相撲という名の異世界を楽しみながら、
スポーツ的な応援を目撃するたびに
現実に引き戻される。
集中できない要素を引きずりながらも
何とかもう一度非日常を味わおうと試みるも、
一度現実に戻ってしまうともうダメなのだ。
とはいえ、相撲がここまで生き残ってきた過程のなかで
相撲を日本文化たらしめてきた要素が
実は失われてきていて、歴史的な変化の中で
私と同じように非日常と現実を行き来する違和感を
覚えた人も居たのかもしれない。
要は、慣れなのだろう。
だが…
本音を言うと、相撲はあの形だからこそ相撲なのであり、
コールをしたり紙を見せたりするのは
場を荒らす行為に見えて仕方が無いのだ。
そもそもコールや紙を見せる応援というのは
現状の形を壊すだけの価値が有るのだろうか?
あれが無ければ相撲は楽しめないのだろうか?
伝え聞いたところによると、あの紙を見せるやり方は
とある有名ファンが周囲に伝播しているのだという。
そのとある人物の応援感というのが
テレビに映る場所に座る、
盛り上がるタイミングで大暴れする、
というやり方であることを考慮すると
そもそもその楽しみ方自体が周囲を配慮しない
自分勝手なものであると言わざるを得ない。
文化が変わりゆく過渡期なのだという合意が
新しいスタイルで応援する人と
既存ファンとの間で共有されていれば
特に問題無いのかもしれない。
勿論これは私の意見であり、
あのスタイルを肯定する見方も有るだろう。
それは否定しない。
既存ファンの立場から言えば
このようなスタイルを否定することは
大変面倒なことであり、
腹の中では思っていながら面と向かって
言いづらいことだというのは
ツイッターでの「あの応援批判」を見れば
明らかなのだ。
批判は覚悟の上である。
だが、このスタイルの応援に対して
既に辛辣な見方があることを彼等ならびに
有名ファンの方には知ってもらいたいものである。

相撲の応援に思う。” に対して1件のコメントがあります。

  1. なの。 より:

    以前相撲では「ブーイングをしない」というのを耳にし、大変相撲らしい良い形だなと感心した事がありました。
    時まさに朝青龍全盛期。
    傍若無人に振る舞う朝青龍にみな眉をひそめながら、その強さに感心しつつ閉口し、勝つ姿を見せられる事によってまあ仕方ないかと大目に見させられていた時でした。
    そんなある時、また何か問題を引き起こした朝青龍に対してテレビのインタビューに答えたファンが「カツを入れる意味を込めてね、気合を入れて応援しようかと思います」と言っていました。
    その映像を観た時、「ああなるほどこれか」と思ったものでした。
    場内を包む大ブーイングで批判するのではなく、逆に応援する事で自分のその批判を内に秘める。
    なんと奥の深い世界か。と思ったものでした。
    最近では、テレビ画面から不通にブーイングも聞こえて来ていますし、批判的なヤジが飛ぶ事もあります。
    あの僕の感心した独特の大相撲応援観は、もはや廃れてしまったのかと寂しく思いました。

  2. Nihiljapk より:

    >なの。さん
    コメントありがとうございます。
    相撲を観る側にも高いマインドが有って、
    相撲に対してどう在るべきかを考えている
    ってことが応援の方法にも反映されているんだと
    感じました。
    だからこそ、相撲は国技なのであり
    いわゆるスポーツには出せない文化としての
    側面があるのが魅力なんですよね。
    私は相撲のそういう部分が大好きなんです。
    観る側も見せる側もお互いが高め合うような
    そういう信頼関係が築ける関係性は、
    ブーイングするだけでは難しいんだと思うのです。
    こういう面を四股名ワサワサ紙を出す人達に
    それとなく説けるひとが居ればいいのですが…

  3. なごやん より:

    こんにちは、自分は少し考え方が違います。
    勿論管理人さんの仰るとおり、相撲という興行の景観を著しく損なうものは問題があると思います。しかし伝統というものは固定したものではなくて、少しずつ時代に合わせて変わっていくものです。
    ファンが管理人さんのような人ばかりであれば変わらなくていいでしょうが、実際今相撲は不人気ですよね。景観を損ねない範囲でこれからの相撲はどうあるべきなのかを模索する意味で、相撲が新しい選択をすることは大切なことだと思います。

  4. でるそる より:

    初めまして。なかなかコアな相撲ファンですね。
    垣添の記事には感動しました。
    今回の応援について私も非常に気分の悪い問題です。
    正直ウザい以外のなんでもないですねあれは。
    と言いますか、なんで私が〇皇や琴奨〇を応援しなきゃならんのだ。
    あなたは琴奨菊には嫌悪感を持っていないようですが、
    私はあの応援のおかげで彼が待望の日本人大関にも関わらず
    かなり色眼鏡で見てしまっております。
    すべてはあの一方通行な応援のためです。
    相撲だけならず勝敗の付くものにはすべて敗者がいてこそ
    勝者がいるのです。敗者がいてくれるから勝者が輝けるのです。
    アホ丸出しでか~〇~おう!とか言ってたヤツらには
    応援されていないものの立場に立って見ろと言ってやりたいです。
    (センス持ってる爺さん、とりあえずあれは別として。)
    まだあなたのブログを全部読んでいないのですが
    舞の海の解説についてや四文字熟語について等(今日の
    稀勢の里は会心の口上でしたね!)、只者でない
    コアさを感じます。
    ヒマがありましたら乱筆の上無知な戯言ですが今後もお邪魔
    させていただくこともあるかもしれません。
    その節は一つよろしくお願い致します。

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