白鵬と日馬富士の、怖さの見せ方の違いとは?

白鵬が好調である。
大関と日馬富士が取りこぼす中で、
当たり前のように盤石の相撲で5連勝を飾る、
ということが日常になっていること自体が
異例のことである。
取りこぼすと「だらしない」と
批判される立場に有りながら、
勝てば当然、負ければ批判というリスクしかない
野球で言うところのアジアシリーズのような
戦いを問題無く終えるところに
白鵬の凄さを感じるのである。


こうしたキャリアは必然的に平幕側に対して
プレッシャーを与え、まともな精神状態で
挑むことさえも出来なくしてしまう。
実績というのは、強固なアドバンテージを産む
ということを白鵬を通じて感じるわけである。
だが、今回気になっているのは
場所が始まる前から度々トピックとして出している
日馬富士に対抗するための「修羅としての白鵬」の
状況である。
日馬富士は平幕達に張り手を見舞い、
早速横綱として勝利を優先する姿勢を
存分に発揮している。
そのことに対しては否の強い賛否両論という
状態ではあるが、プロフェッショナルとしての
一つの在り方だと私は思う。
怖さを植え付けることによって、
アドバンテージを得る手法というのは
現役時代の千代の富士が
稽古場でも絶対に負けなかったエピソードや
朝青龍が負けた後の場所で
ラフプレーをしながらも絶対に勝ったことからも
横綱にありがちなやり方であると言えよう。
そこに横綱の品格が有るか、というのは
また別の議論ではあるが、さて
ここまでの白鵬はどうだろうか。
意外なほど、普通なのである。
彼のここまでの取り口は、いわゆる横綱相撲。
相手の形を受けた上で、先手を取りながら
自分の形に持ち込み、そして気が付いたら
修復不能な態勢になり、子供のように遊ばれる。
いわゆる横綱としての横綱相撲。
これは二人の大きな差である。
怖さを見せつける怖さと、
怖さを見せない怖さ。
映画アウトレイジでは、立場の弱いヤクザほど
大きな声を張り上げ、上の地位の者ほど
言葉だけで相手を屈服させていた。
どちらも怖いことには変わりはない。
だが、声を上げることではなく、怖がらせることが
目的なのだとしたらどちらも結局は同じことである。
だが力を誇示することは、
力が有ると認識されていない者がする手法である。
なぜならば、力が有ると認識されていれば
改めて力を見せる必要はないからだ。
そう考えると、二人のアプローチの違いというのは
合点がいくところである。
若葉マークの横綱と、大横綱。
二人の違いも、注目である。

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