「政経電論」に「大相撲は「女人禁制」のままファンの心をとらえ続けることができるのか」という記事を寄稿しました。
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「伝統」とは何だろう。
変えなければならないのは、何だろう。
変えてはいけないのは、何だろう。
大相撲は、理由なき不合理な「伝統」の集合体だ。そしてその「伝統」こそが、文化としての面白味を産み出している。「なぜ?」と言われたら「そういうものだ」という言葉に帰結せざるを得ない。
時代が相撲に寛容であればそれでよいと思う。だが、相撲ファンを除いた多くの方が相撲に寛容ではない時代が到来してしまった。あらゆることを理屈で説明出来なければならない。筋が通らなければ叩かれてしまう。そういう時代なのだ。
残念ながら、今の大相撲は世間に「伝統」の理由なき不合理を露呈してしまった。何となく「そういうものだ」で通ってきたことが、もう通らない。
どのような理屈を付けても、「伝統」という言葉で突破を試みても、もう駄目なのだ。
大相撲は、「伝統」にどう向き合えば良いのか。
女人禁制の一件がニュースを賑わせた時、私は迷った。
政経電論から、女人禁制についてどう考えるか。という記事の話を頂いた時、私はこの問題を「難しい」と感じていたため、執筆を先送りさせてもらった経緯がある。
どのように向き合えば良いのか。「伝統」という都合の良い言葉を振りかざすことが良いのか、全面的に向き合うべきなのか。私にはよく分からなかったのだ。
葛藤の末に、感じた取捨選択の大切さ。
結局大相撲は、スポーツではない。
そして、ショーでもない。
どちらの要素も兼ね備え、更には文化としての側面も持つ。大相撲は何か。そう尋ねられた時の答えは、結局大相撲であると答えるしかないほど、大相撲はカテゴライズが難しいものである。
大相撲の持つ不合理の集合体としての「伝統」を失った時、相撲は単なるスポーツになるかもしれない。そして、ショーになるかもしれない。
ただ、「伝統」を盾に変わらぬことを選んだとしたら、時代は大相撲を見放すことになるかもしれない。だとしたら、そのような「伝統」とは一体何なのか。
時代に合わせて、時代に寄り添う形で、しかし「伝統」としての特別感は担保する。大相撲が大相撲であるために、取捨選択は必要だ。そして、その取捨選択は説明が出来なければならない。
だからこそ、この問題は「難しい」のである。
日大アメフト部や紀州のドンファンが注目される中で、世間が注目を失ったからと言ってなぁなぁで終わらせる訳にはいかないと私は思うのだ。
今回議論になっている具体例3件について背景事実をまとめた情報がほとんどないので、西尾さんは既に把握済だと思いますが、いくつか書かせてください。
1.女性看護師の応急手当の件
あの場でアナウンスを担当したのは若手の行事さんとのことですが、もし当時、その行事さんが一人でマイクの前に座っていたとすれば個人的には同情してしまいます。たぶん20代だと思いますが、その年齢で迷わず超法規的措置を発動できる人なんてそうそういません。
逆に、決まり手係の親方が既にスタジオ入りしていたとすれば、いったんアナウンスを制止した上で、その親方から土俵下の審判に携帯電話で問い合わせて然るべきでした。
まだ関取の取組前で、土俵で挨拶中の来賓が倒れたとのことですから、もしかしたら親方衆も別の関係者への挨拶回りやら、自分の部屋(や一門)の関取の陣中見舞やらで忙しかったのかもしれません。このへんの真偽は、その行事さん本人がこれから出世して自伝を書いてくれるまで待つしかないですね。
ちなみに、以前ブログに書かれていた「応急手当のできる男性を常時配置すればよい」については全面的に賛成です。たとえば日本赤十字社が全国で講習会をやっていますので、これを呼出さん全員に定期的に受講させるのが手っ取り早いと思います。新弟子全員に、というのは日赤側のキャパ的に難しいかな?
2.ちびっこ相撲での女児拒否問題
この件、「まさか、巡業部長の貴乃花親方が独断でOKを出して、でもそれを上に報告していなくて、その後、貴乃花の更迭で事実関係が発覚したのでは?もしそうだとしたらまたワイドショーが騒ぐな…」と思って時系列を調べてみました。結果は、
(1)相撲協会の公式発表によると、女児の参加を許可したのは故・北の湖理事長で、平成24年(2012年)のことだとしている。
(2)Twitterを見ていると、2008年にも女児が参加したという報道がある。
(3)貴乃花の巡業部長就任は2016年で、北の湖が亡くなった後。
(4)その貴乃花はむしろ、女児の参加には反対の立場だった。
結局こちらの件については、親方どうしの間での風通しの悪さが目立つという印象しか残りません。女人禁制云々の前に、相撲協会のガバナンスをどう建て直すかという問題が先決だと思います。