政経電論に「守るべきは力士か文化か スター候補を葬るけがと番付システム」という記事を寄稿しました。

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露見した長期欠場を勧められない理由

政経電論に

「守るべきは力士か文化か スター候補を葬るけがと番付システム」

という記事を寄稿した。

記事はこちら。

これまでに力士は大きな怪我をしたら時間を掛けて治すべきだ、という論調で記事を書いてきたのだが、最近その見解に迷いが生じる出来事があった。

宇良の怪我再発と、千代鳳の不振だ。

彼らは大きな怪我を負い、勇気を持って休むという決断をした。元に居たところまで戻ることが真の意味での復活だ。そのためには体を元に戻さねばならない。

だがその過程で宇良は故障し、千代鳳は相撲が戻る気配がない。

勿論彼らが無理をして復帰したところで、結果が好転しているとは思えない。だが、時間を掛けて治すという、番付上のリスクを冒しても結果が伴わないのでは再出場しながら怪我をしたなりの相撲を取るという選択をしたほうがいいのではないか。そういう意見を必ずしも否定できないと感じるようになったのである。

勿論怪我を治さないことにはかつての相撲を取ることが出来ない。そういう意味では治してほしいという想いは変わらない。だが、長期欠場のデメリットが露見した今、この意見は必ずしも通らないだろう。結局今のシステムでは長期欠場はリスクを伴い、リスク故に力士達は疲弊している。

動かぬ協会への不信感

そして、力士達が疲弊し、新世代の力士達が次代を担う前に壊れる実情がありながらも、協会は何時まで経っても対策に着手しない。

横綱大関がほぼ30代という現状を招いたのは、ハッキリ言って彼らの無策によるところが大きい。白鵬のライバルも、脇を固める力士達も、可能性を見せる前に消えてしまったからだ。

更にはそれを批判し、具体的な案を講じる者も居ない。

怪我は感動を産むための装置と化し、感動の代償が稀勢の里の不振と引退という最悪の事態なのだ。代償の痛みの記憶が新しいうちに、この問題は論じねばならない。そうしないと単に稀勢の里は実力が足りないのに横綱にされ、犠牲になったという誤った記憶で語られる存在と化すからである。

Numberという媒体で語っても、何も変わらない。

だが、私にできることは多くの方が目にする媒体で語り続けることだけだ。

手遅れになる前に、いや、もう手遅れなのかもしれないが、これ以上犠牲を増やす前にするべきことがある。そのために私は働きかけていこうと思うのである。

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