新日本プロレスと大相撲の人気回復は、似て非なるものである。ジャンルの否定と肯定と、新たな価値観の構築がもたらす新時代の持つ意味とは?

最近、新日本プロレスの人気回復が凄い。
観客動員が戻っていることもさることながら、テレビやウェブ、テレビや雑誌での露出の多さが人気回復を雄弁に語っている。エースの棚橋弘至は勿論、ヒールレスラーの真壁刀義すらお茶の間での知名度を高めている。これは数年前を想えば有り得ないことだと思う。
猪木から長州藤波、三銃士への継承は見事だったが、90年代に入り総合格闘技やK-1など「プロレス」から「格闘技」に観客が流れる中、看板レスラーの永田裕志や中西学の「格闘技」への参戦と惨敗。そして女子レスラー:ジョーニー・ローラーの登場やカオスとしか言いようのない「アルティメットロワイヤル」。極めつけは相次ぐ社長交代と、環境変化が新日本プロレスを呑み込み、混迷する時代の中で新日本プロレスという名の船は明らかに迷走し続けていた。
肝心のマット上では良く言えば「プロレスと格闘技の融合」、悪く言えばプロレスと言うには互いの良さを引き出せず、格闘技と言うには技量が足りないという、プロレスファンにも格闘技ファンにも訴求できないそれであったことは否めない。そんな状況からの復活だからこそ、今の人気は信じ難いのだ。
とこの話を考えると、同じく混迷を極めた末に再起し企業努力の末に新たなブームを築き、黄金時代を迎えつつある一つのジャンルのことを思い出さずには居られない。言うまでもなく、それは大相撲である。人気の低迷と回復という共通項が有り、新日本プロレスのケースと大相撲のケースは一見似ているのだがその本質は全く異なるということなのである。
新日本プロレスの場合は、プロレスの肯定と否定。
大相撲の場合は、相撲の肯定。
そもそもプロレスというショーが死んだのではないか?という見方もかなりの割合で有る中で新日本プロレスはプロレスに向き合った。栄華を極めた時のストロングスタイルを捨てて、2015年のプロレスを構築することにより新たなファンを鷲掴みにした。棚橋のエアギターやナルシストキャラ、中邑のクネクネ、オカダ・カズチカに至っては彼の概念そのものが既存のプロレスファンの引き出しには見当たらないそれである。つまりは、それが彼らの行き着いた2015年にファンに訴求できるプロレスなのだ。凄い話だとしか言いようが無いと思う。
大相撲の低迷とブームに至る経緯については今更語るまでもないところだと思うが、様々な不祥事で信頼を損ない、どん底まで落ちた後で力士も親方も協会も危機感を持ち、力士は死に物狂いで土俵の充実を図り、協会は手つかずだった企業努力に着手した。土俵の充実とフレッシュな若手の登場、相撲協会の様々な施策が功を奏して国技館に人が戻ってきた。というのがこの数年の出来事である。
新日本プロレスの場合はプロレスの可能性に賭けながらも、既存のプロレスを否定した。大相撲の場合は、既存の相撲にひたすら邁進した。つまりそういうことなのである。
人気が低迷した時、その原因を何処に見るのか。プロレスも大相撲も、ジャンルそのものを否定する声も大きかった。その世界で生きる者がジャンルそのものを信じられないとしたら、そんなジャンルは一体誰が信じられるというのか。世間が否定的な眼差しで観る中で、信じ続けることは難しいことだと思う。事実格闘技に走った時の新日本プロレスの迷走は、ジャンルの否定がその根底に有ったことは間違いない。
大相撲が新日本プロレスと異なるのは、あらゆる価値観が「そういうものだから」という言葉で集約されることに有る。興行という形態で300年、起源から1200年。相撲は信じる信じないを超越した文化なのである。仮に人が相撲から離れようとも、相撲は相撲で在り続けるしかない。だから、大相撲は如何なる状況に陥ってもやるべきことは一つだけだったのである。そういう意味で言えば、新日本プロレスは難しい立場だったと思う。
だが、大相撲は大相撲で難しい部分も有った。相撲に邁進するしかない中で、しかしそれでも2015年にフィットさせるための努力はせねばならない。ましてや歴史が有れば、当然歴史を理由にあらゆる変化が否定できるのである。遠藤パネルもスージョも、そうした経緯を考えればかなりの冒険だ。
何が正しくて、何を変えねばならないのか。変わりゆく時代の中で、ジャンルを巡る歴史的背景が異なる中で、その舵取りが難しい。新日本プロレスのケースも、大相撲のケースも適切であることは間違いない。しかし、変えるとすれば反発も生まれる。三銃士の頃のプロレスファンにとって棚橋のプロレスが違うという印象を持たれることも有るし、相撲協会の施策を快くなく思っている層もかなりの割合で存在している。
だからこそ、最終的には信じてやり抜くしかない。
100人居れば100人から肯定されたいのが人の常である。変化が無ければ不満を口にされることは有っても、根本から否定されることは無い。だが、変化の道を選べば繁栄の道を歩む可能性を残す反面で、厳しい反発を招くことも意味している。
そういう中で掴み取った繁栄だからこそ、新日本プロレスも大相撲も素晴らしいと私は思う。先日出版されたNumberの新日本プロレス特集号が近年のNumberの中では白眉の出来だったのは、レスラーとライターがどん底にあえぐ中でプロレスを信じ続け、時に失望しながらもドラマを共有し、新しい価値観を構築するまでに様々な試行錯誤を繰り返したことに対して多大な想い入れを抱いており、想いの丈を記事に炸裂させたことによると思う。
個人的に残念なのは大相撲が同じような辛酸を舐めながら、泥臭い努力を繰り返した末にブームを勝ち取ったことに対する密度の濃い記事を読んだ記憶が無いところである。
2015年は、幻想ではなく生身の人間のリアリティショーこそが心を掴む時代だ。完璧な人間としての王貞治ではなく、試行錯誤を繰り返すイチロー。きらびやかで生活感の無いスーパースターとしてのカズではなく、ステップアップの度に壁に当たり続ける本田圭佑。「なんてったってアイドル」の小泉今日子ではなく、舞台裏で酸欠で倒れる姿が映画化されるAKB48。
大相撲の人気回復もまた、リアリティショーのオンパレードであることは間違いない。こういう姿を伝えることで得られる共感が有るのではないかと思う。それもまた、時代が求める姿なのだから。
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