豊真将の美しさは所作ではなく、その生き様だった。
夜勤明けで私は両国に向かっていた。
錦糸町で風呂に入り、着替えを済ませて総武線の駅を目指す。11時開始ではあるが、最初は下の力士の花相撲なのでそれほど急ぐことも無い。知人から誘いを頂いていた私は、チケットを忍ばせて豊真将引退相撲に向かっていた。
と、その時。
ツイッターで目を疑うことが。
「チケット完売」
何ということだろうか。確かに最近の大相撲人気は過去に類を見ぬものになりつつある。力士人気だった若貴時代とは異なる、大相撲人気。地方巡業も各地で盛況であることは間違いない。
だが、これは引退相撲なのだ。
巡業ほどのエンターテイメント性は無く、その力士の最後の姿を見せるための興行である。楽しさを求める訳でもなく、真剣勝負の醍醐味を味わいに行く訳でもない。今まで引退相撲に足を運ばなかったのも、この辺りが理由だ。
そして、引退する力士は豊真将である。角界を支えてきた名横綱でもなく、優勝を争い続けてきた大関でもない。更には、高見盛のようにアクの強いのキャラクターを持つわけでもない。
むしろ豊真将は、そうした磁場とは対極に位置する力士である。12時前に両国国技館に到着した私は、この時点で既に満員に近い観衆が足を運んでいることに驚いた。豊真将の人気の高さに改めて気付かされたのだ。
豊真将と言えば話題になるのが所作の美しさだ。
蹲踞。
塵浄水。
手刀。
全ての力士が当たり前のように行っている所作を、他の力士以上に大事に行う。誰にでも出来ることかもしれない。所作に難しい技術は不要だ。だが豊真将ほど所作を大事に、美しく行う力士は皆無だ。
これほど所作が話題になり、そして所作の美しさに目を奪われる力士を私は知らない。豊真将と所作は切っても切れぬものである。今まで私はここまで所作に注目したことは無かった。
ひょっとしたら、他にも所作の美しい力士は居るのかもしれない。単に私が気付いていないだけなのかもしれない。それほど所作というのは意識せずに見ているのだと思う。
だが、豊真将が行う時はつい見てしまう。
それは何故なのか。
私は豊真将の所作もさることながら、そこから生き様を見ているのではないかと思う。土俵の上では全てが見えてしまう。逃げる気持ちも、闘う気持ちも、ズルいところも、真っ直ぐなところも。人間としての弱さを見せたからこそ勝つ相撲も有るし、自分に打ち勝ったからこそ負ける相撲も有る。人間性を高めることと相撲に勝つことは、いつもイコールで結び付くわけではない。
技術的なことは相撲経験者ほど分からない。解説をされて初めてなるほどと気付かされることは多い。いつものことだ。マービンJr.さんのツイートを心待ちにするのはそういう理由である。
だが相撲の素人である私でも、土俵上からその力士の生き様が見えることが有る。むしろ技術ではなく人生哲学のような部分にこそ、大相撲を見る意味を見出しているのではないかと思う。エンターテイメントとしての相撲が観たければ、機械に相撲を取らせればよい。ただそういう相撲を誰が観るというのだろうか。
豊真将の歴史は、怪我と挫折の歴史である。入門後は番付を駆け上がったものの、三役には手が届かない。時同じくしてモンゴル人力士が相撲界を席巻する時代が到来し、当初の期待に応えられない豊真将に落胆する者も、批判する者も居た。それは致し方ないことだった。
更には、歳を重ねた後で大怪我を経験した。幕下が見えるところまで番付を落とし、引退が囁かれる中で現役を続行した。苦しい時期の多い力士だった。いや、苦しくない時期など存在したのだろうか。
それでも、豊真将は土俵上で変わらなかった。誠実に相撲を取り続けた。そういう姿勢を集約していたのが、今思えばあの所作だったのではないかと思うのだ。
単なる動作として流してしまいがちな所作ではあるが、苦労してきた豊真将の歴史を想いながら観てみると、所作にさえその人間性が乗り移っているように見えるのである。苦難の歴史に誠実に向き合ってきた力士だからこそ、感情移入することになる。そういう目で力士を見てみた結果が、所作に対する気付きではないかと思うのだ。
所作を美しくすることは、意識次第で誰にでも出来ることだと思う。だが所作が美しいことにも意味は有るが、本当の意味で心打たれる所作にするには背中で語り続けねばならない。つまり、所作は単なる所作ではないということである。
豊真将のように美しい所作を見せる力士を育てて欲しい。だが同時に、豊真将のように美しく生きる力士を育てて欲しい。満員の観衆の前で立派に所信表明する立田川親方を見ながら、私はそんなことを思ったのであった。
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