大相撲のコールを、いかに防ぐか。相撲協会に求められる動きとは?

白鵬と正代の一番の直前で、正代を応援するコールが起こった。
立合の出来が取組を大きく左右するだけに、集中力を乱しかねないという側面から応援は控えるのがマナーだ。相撲を自然と観ている方であれば何となく理解しているマナーが共有できていないので、近年こういうことが増えてしまっている。
白鵬が荒れた取組を見せることも相成って、取組後はコールに対する批判が相次いだ。このような流れはコールが起こる度に現れている。人気低迷後、ずっとだ。既存のファンは厳しい声を挙げている。うんざりしている。状況が変わらないことに苛立ち続けている。
当ブログでもコールについては何度か取り上げてきた経緯が有る。最初はコールに対する不快感を綴っていたが、そんな内容を焼き直しても何の解決にもならない。そこで、それが単なるマナーなのかと調べてたところ、相撲協会が定めた「観戦約款」に於いて集団応援を禁ずる記述が有ることがわかった。
大相撲でのコールは、約款上禁止行為である。観戦マナーに関する諸問題が文化として継承されないためにも、着手すべきは今である理由とは?
だが、この記事を書いた時にも記しているのだが、苛立ちを覚えているのは決まりを守らないからではない。相撲の粋を逸脱した行為を行っているからなのだ。SNSを中心として批判の声は上がり続けているが、彼らに届くことは無い。
それでも言い続けなければならないのだろうか。届かない声を挙げ続けなければならないのだろうか。腹立たしい思いを抱きながらも、声が届かないことに絶望せねばならないのだろうか。だからこそ、いい加減にこの問題に向き合わねばならないと私は思う。
幸か不幸か、理事長交代という出来事が有った。相撲そのものに対しても手の付き方への指導が入っている。八角カラーによる改革が進められつつある今だから、このタイミングを逃してはいけない。
大相撲に残された道は二つ。
一つはコールを許容すること。
もう一つはコールを規制することである。
ただ、前者は厳しいだろう。何故なら相撲人気の土台を支えているのが既存ファンだからである。彼らの意識を変えるほどコールは大事かといえばそうではないし、意識を変える力がコールに有るとはとても思えない。
現在約款上禁じられているコールを許容するのであれば、それなりの理由が必要だ。だが、許容する理由が「皆やっているから」では誰も納得しない。既存ファンが不快感を抱いている行為を正当化せねばならないのだから、論理性が求められるのである。そんな論理が果たしてコールという行為に付けられるのだろうか。
それでもコールが大事で、大相撲にコールを持ち込みたいという方が居れば解禁させるための論理を考えて欲しい。難しいことではあると思うが、既存ファンとの溝を作ることは本意ではないと思う。誰もがコールを受け止められる大相撲に向かって歩まない限り、白い目で見られ続けてしまうのは明白だ。
そしてここからが本番なのだが、既存ファンとコールする方の溝を埋めるためにはもう規制しかないだろう。規制というのは最終手段なので、相撲協会としても自浄作用に期待していたのだろうが、数年で改善されるどころか状況は悪化する一方である。
言わなくても一つのルールや価値観をファンが共有できているのが理想であり、粋であると思う。テレビのテロップで「この後スタッフが美味しくいただきました」と書けば興ざめなのと同じように、アナウンスや注意文として明文化するのは出来れば避けたいことだ。
それに、アナウンスによる周知はあまり意味を持たないことを私は知っている。何故なら、座布団を投げることは館内放送で控えるよう日々アナウンスしているにもかかわらず、状況は改善されないからである。踏み止まる方は一定の割合で出てくるかもしれないが、それだけでは不十分だ。
問題はコールをいかに規制するか。これに尽きるのである。そこで、国技館でコールがどのように起こるかを考えてみたい。
コールは、コールを先導する人とコールに乗る人に分けられる。国技館に行けば分かることだが、コールというのは毎回成功するわけではない。先導しても乗ってくる人が思った以上に少なく、そのまま消滅することも多い。
以前記事にもしたことだが、実はコールというのはする側も行儀が良くないということを認識しているのである。というのも、天皇陛下が来場された際はコールも手拍子も無かったからだ。それでも彼らはコールをするのは、周囲がコールをすることにポジティブな空気だからである。要するに赤信号を渡れる空気が有れば、コールに踏み切るということだ。
赤信号を渡れる空気を産み出すのは、人の数である。つまり、コールを先導する人数が多ければ多いほど、コールは伝播しやすいのである。逆に、一人で先導するコールは上手くいくことが少ない。大人数でコールを先導する動きが事前に分かっていれば、かなりの割合でコールそのものを防ぐことが可能だということだ。
コールがよく発生するのは、全国的に稀勢の里、豪栄道、勢、遠藤。九州だと琴奨菊、松鳳山、嘉風。彼らに共通しているのは、応援団が居ることである。
聞くところによると、団体で観戦をする際はある程度席を固めて取ることが可能なのだという。確かに考えてみると応援団は同じ一角で観戦しているように思う。恐らく事前に相撲協会は彼らの動向を知っているはずだ。つまり、事前にコール禁止の旨伝えることが出来るのである。更には取組前に再度注意することも、監視することも、更には守らなかったときにブラックリストに入れることも可能だ。
応援団によるコールを抑制出来れば、かなりの割合でコールが減ることになる。実施に向けての工数も、そうは掛からないだろう。あとはやるかやらないか。それだけだと私は思う。
今はもう、粋を共有できる時代ではない。
粋を極力削がない形で守ることが求められるのだ。
コールをする方も、周囲に嫌われながらそれをすることは本意でないと思う。もし嫌われている自覚が無ければ不幸なことだ。沢山の方が応援している。そういう熱い想いを伝えたいというだけということも有るだろう。しかし熱い想いが別のものを伝えているのだとすれば、未然に防ぐべきだ。
恐らく登場人物の中に悪人は一人も居ないと思う。相撲を楽しみたいという共通の想いがあるのに、全員が不幸な結果になっている。折角の相撲だから、全員で楽しめる空間を創って欲しい。そのための曲がり角に我々は居るのだ。
もうなぁなぁでは済まされない。
そういう次元の問題だ。
未来のために、早急な改善を望みたい。
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大相撲のコールを、いかに防ぐか。相撲協会に求められる動きとは?” に対して3件のコメントがあります。

  1. urawa_rosso_2006 より:

    昨日の白鵬-正代の取組のコールはあまりにもひどいと
    私も思いました。
    コール自体を私もあまりいい要素だとは考えていませんが
    大挙する応援団などが来て(しまい)その応援団の気持ちが
    コールに繋がってしまうことは、ある程度仕方がないかなと
    思ってしまう部分もあります。
    稀勢の里の応援団は東京場所の際は、茨城から大挙して来場し
    それをカメラがとらえ放映するシーンは幾度となく見ています。
    郷土の誇り、英雄に対してどうしても声を届けたい思いが
    コールという形になってしまうこと。
    この場合のコールに全くの否定はできない感覚を持っています。
    しかし
    この稀勢の里の応援団は、純粋な応援の声なのに対し
    昨日の正代を含め、度々見られる、対白鵬との取組で
    白鵬に負けてほしいと願うようなコール
    これには私も辟易としており、けしていい気分で見ることができません。
    ましてや昨日の取組なんかは、時間一杯、まさにこれから
    呼吸を合わせるという場面においてのもの。
    相撲そのものを冒涜しているようなコールで
    これには私もやるせない気持ちになりました。
    その渦中にいた白鵬がどんな気持ちだったであろうかと。
    けして、ダメ押しが許されるものではないですが
    昨日のダメ押しは、正代に対してというよりも
    コールをした観客に対する怒りのメッセージだったようにも思います。
    とはいえ、
    稀勢の里やその他力士へのコールも、対白鵬に対するときの
    相手力士へのコールもどちらも同じコールでありますし
    良いコール、悪いコールなんていう差別化をするものでもないと思うので
    コールそのものへの対策というのは
    考えていってほしい部分だと私も思います。

  2. TCE00072333 より:

    違うスポーツを持ってくるのはどうかと思いましたが、陸上競技を
    やっていた人間としてやはり正代コールは如何なものかと思いました。
    陸上競技・トラック種目の場合はスターターの「On your marks=
    位置について」で観客は静粛にすることがマナー・エチケットです。
    それを踏まえ「set=選手は用意、スターターは選手のブレ確認」
    →「発砲・ド~ン」となります
    陸上競技でもフィールド種目、特に走り幅跳びなど跳躍種目において
    手拍子があります。最近は相撲でも観客から自然発生してますが、
    跳躍種目の手拍子はあくまでトップアスリートが自らを鼓舞する時に
    要求するもので、仮に自然発生したとしても確実に頂点を取れる
    アスリートくらいなものです。
    自然発生するのが悪いとは言いません。でも行司が「時間です」と
    発声したら、土俵上の人間の「用意・準備」だということに気付いて
    静粛にすることがマナー・エチケットだと考えてもらいたいです。
    動と静が紡ぎあっているからこそ大相撲が興行として成り立つのであり、
    それこそが日本の粋な処でもあると思うのでね。

  3. nihiljapk より:

    結局コールって様々な側面から大相撲には難しい文化なのだと思います。競技の妨げにもなりますし、文化圏も異なる。それを差し引いても受け入れる価値が有るかといえば難しいところです。
    文化として続けるなら妥協ラインが必要ですが、それも難しいかなと

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