大河ドラマ「稀勢の里」。人生するかしないかで「する」ことを選んだ男の物語。
稀勢の里が、優勝。
千秋楽を前に、あれほど渇望した優勝を稀勢の里が掴んだことを知った時、最初に胸に押し寄せたのは、戸惑いだった。夢なのか、現実なのか。そういう類のことではない。嬉しいとか、涙が出るとか、劇的に感情が揺さぶられるかと思いきや、驚くほど冷静だった。恐らく感情を超える出来事だったのだと思う。冷静に戸惑う自分が居たのだ。
いち早くこの現実を整理したくて、稀勢の里の優勝に向き合いたくて、私は仕事を終わらせた。大江戸線に乗り、森下で間違えて降りて再度大江戸線に乗り直し、最寄り駅で降りて、夕飯を食べて、サタデースポーツを観る。
会心の相撲ではなかったが、急がずに逸ノ城の急所を攻めて勝利を収め、白鵬が貴ノ岩を相手に何もできずに敗れる。戸惑いが晴れて、稀勢の里の優勝という大事件を受け止める準備が出来た。まるで麻酔が切れた時のように、感情が押し寄せながら感想も頭を駆け巡った。その時私は、思った。
長かった。
とにかく、長かったのだ。
稀勢の里が成長し、優勝が現実味を帯びるほどの実力を身に付けてから、本当に長かった。それまでは、確かに稀勢の里に期待はしていたが、大関になるには実力が足りなかった。連勝を止めるような爆発力は有ったが、ムラが有るので期待の若手枠を飛び出すことを求めていた。
ターニングポイントは、2013年夏場所だった。
互いに13戦全勝での、白鵬との一番。
何かが変わるかもしれない。変えるのは恐らく、稀勢の里だ。未来に向かって可能性しか見えない、ベストバウトだった。私はそこで、稀勢の里に夢を見た。本場所で優勝するという、現実味溢れる夢だ。
だがそこからの3年半は、失望と期待を短期間に行き来した。失望と期待の順序は、その時々で入れ替わる。期待を膨らませた後で、平幕力士に敗れるような波乱を演出する。序盤戦で平幕相手に苦杯を舐め、優勝の可能性が極めて薄い時に横綱相手に大爆発する。
失望の歴史であれば、誰もその後期待することは無くなる。だが、失望だけではなく、強さを見せ付けることに依る期待が懸かるため、失望しているのに離れられない。むしろ稀勢の里に対する期待値は、高い状態で留まることも多いのである。
そしてややこしいのは、この高止まりした期待値が粉々に砕かれるのだ。無様に、醜悪に。そこに有るのは弱さだけだ。何故そのような相撲を取ってしまうのか。希望が眩ければ、その陰に有る真逆の感情は本当に暗いのである。このジェットコースターのような起伏が、我々を疲弊させた。だが絶望的な勝負弱さを露呈しながらも、稀勢の里に対する期待値はそれほど下がらなかった。だから疲弊を産んでしまったのだ。
疲弊し続けて、3年半。
毎回のように消耗し続けてきた。
それは長いと感じるはずだ。
考えてみると、稀勢の里に何かを託すファンがこれだけ疲弊しているのだから、一体稀勢の里本人はどれだけ身をすり減らしてきたのだろうか。
史上最強横綱が居る。
二人のモンゴル人横綱が居る。
少し前なら、二人の強力な欧州系大関が居た。
彼らと対等に闘える日本人力士、郷土力士の存在を切望し、稀勢の里はその期待に応える一歩手前までは来ていた。
一歩手前まで来ているからこそ、身びいきが生まれる。そして、ひいきの引き倒しをされることも有った。相撲で疲弊し、土俵外でも疲弊する。
もう少し簡単な生き方は有ったはずだ。たまに大関横綱に勝利し、個性派力士として生きていく術も有ったと思う。恐らくそちらの方が遥かに楽な生き方ではないかと思う。これだけ外国人力士が強い時代だ。誰も敵わなければ日本人力士への期待など抱かなくなるだろう。
それでも、稀勢の里は闘うことを選んだのだ。
人生するかしないかの大きな分かれ目が有る。しないことを選んでも、誰も責めない。責められるのは、何時だってすることを選んだ者だ。地位が上がれば観る者の要求も高くなる。
期待も失望も全て受け止める。それが人生するかしないかで「する」ことを選んだ者の生き方だ。稀勢の里は強かったが、勝負どころでの弱さが先の夏場所の千秋楽、琴奨菊戦で露見することとなった。
そこからは、弱さとの闘いだった。
稀勢の里という名前は実に皮肉だと思う。稀なる勢いと書くが、稀勢の里が稀なる勢いを見せたことは無かった。彼は勢いや追い風を味方に付けられない力士だ。初優勝というのは、そうした流れの力を受けて達成することが多い。
風を味方に出来ない稀勢の里が選んだのは、神懸るのではなく、普段の力を伸ばしていくことだった。またしても稀勢の里は、茨の道を歩むことになった。
2016年。
遂に稀勢の里は勢いの力を借りずに毎場所のように優勝争いに顔を出した。風を受けずに初優勝を目指す。こんなことが出来た力士を、私は他に知らない。白鵬や2横綱を、普段の状態で倒す。言うは簡単だが、それが出来ていれば横綱だ。
6場所中4場所で、事実上の優勝決定戦で星を落とす。観ている私ですら信じられなくなった。稀勢の里は違った。
するかしないかで「する」ことを選んだ男は、優勝争い13度目の挑戦権を獲得した。長かった。今回もいつもの通りだと思った。琴奨菊に敗れた時は、さほどショックも無かった。今場所でさえ弱い時は弱いのだ。
だから、私は戸惑った。何かが変わる時のような、劇的な何かは結局見つからなかったからだ。そういう状況での優勝。
これは、実力なのだ。
稀勢の里が遂に掴んだ、確かな実力なのだ。
勢いではなく、日々の努力で力を付け続けた末の優勝。少しずつ、少しだけ成長し、優勝争いに参加するチャンスが確実に増した。稀勢の里は弱い力士だ。だが、強くなるための努力は素晴らしいものが有る。
そういう力士を、誰が馬鹿に出来るだろうか。観客の厳しい目とも、強大なモンゴル人力士とも闘う。弱いが、気高い。気高が、弱い。そういう愛すべき力士から目が離せるわけなど無い。
これはただの優勝ではない。親方を亡くした力士のお涙頂戴ストーリーでは語り尽せぬほど、この優勝は重過ぎるのである。モンゴル時代と向き合いそして自分とも向き合い続けた、弱くも強い萩原寛が遂に成し遂げた大河ドラマ「稀勢の里」なのだ。
素晴らしい優勝だ。
美しい優勝だ。
今日ばかりは、それを喜ぼう。
おめでとう、稀勢の里。
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まさか、この時にこんな形で「この日」が来るとは思ってもみなかった。
わたしは、心の準備ができないまま、「歓喜」の瞬間に立ち会うことになった。
嬉しくないわけがない。感動に打ち震えないわけがない。泣けないわけがない。
そのすべてが湧き起こった。長年思い描いていた歓喜の瞬間だった!
同時にわたしの中に「もうひとつの感情」があることを感じていた。
だが、その正体など、どうでもよかった。ただただ歓喜に酔いしれたかった。長年の無念を一気に晴らしたかった。
稀勢の里につたう一筋の涙を見て、わたしの感情も「涙」に姿を変えて爆発した。
しばらくして冷静さを取り戻し、「もうひとつの感情」がなんだったのか考えた。
その答えは、nihiljapkさんの言葉にあった。
「大河ドラマ 稀勢の里」、これだったのだ。
わたしもまた、長年「稀勢の里」というドラマを見ていたのだ。
そして、自分で勝手に感動的な筋書きを作り上げていたのだ。
昨日の筋書きはわたしのそれとは大きく違っていた。
これが“違和感”とも言えそうな「もうひとつの感情」の正体だった。
しかしこれが神様の作り賜うた筋書きであり、大河ドラマ「稀勢の里」第二章の始まりでもあるのだ。
第一章はあまりに苦しみの多い展開であった。第二章は願わくばもう少し気楽に楽しめる筋書きであることを願いたい。
おめでとう!稀勢の里!!
あなたを応援していて本当によかった。
PS①
それにしても、「大河ドラマ 稀勢の里」に続くタイトルが、「「する」ことを選んだ男の物語」とはなんと素晴らしいタイトルであることか。このタイトルにも私は涙を禁じ得なかった。
PS②
稀勢の里の父親の手記が発表された。驚いた。「この人はいったい何者?」と思えるほど、すばらしい(いや、すごい)内容であった。この父にしてこの子ありか。稀勢の里の「人間力」に、ますます魅力を感じずにはいられない。
私は稀勢の里関を、漫画「バガボンド」の吉岡伝七郎と重ね合わせて見てしまいます。伝七郎は凡庸な剣士として描かれますが、もちろん稀勢の里関は類稀な才能をもった力士。その違いはあっても、その人生、生き様はどこか似ていて、であるが故に人々を惹きつけるのだと思います。
【吉岡伝七郎】名門の吉岡流、吉岡拳法の次男。天才剣士の実兄、清十郎にコンプレックスを持つ。長身で無骨な外見であり性格は極めて厳格で真面目。武門の子として愚直なまでに剣に情熱的だが、非情になり切れない優しい一面を持つ。
その伝七郎の(宮本武蔵との決闘に臨む前の)セリフが、今の稀勢の里関にぴったりだと思うのです。
『俺はまだ成長の途上にいる。兄者。鷲のように飛べたら、蟻が一歩一歩、歩いていることなど見えやしないだろう。でも歩いているんだ。蟻は歩いているんだ。一歩一歩、喜びをかみしめながら。成長しろ、武蔵。それでも俺が勝つ』
大相撲ファンにとって稀勢の里と大河ドラマ、これほど親和性の高い単語はなかなかないですね。
ファンやメディアからの強い期待とプレッシャー。モンゴル勢や好敵手との激闘・死闘。多事多難な相撲人生で外ではなく、自分の中に答えを見出し続けた姿には、人生の大切なものを教えてもらえた気がします。
話は変わりますが、今日の白鵬戦を前に審判部長、横審委員長共に稀勢の里の横綱昇進への動きを加速させる発言がなされました。
臨時理事会、横審ですんなり決まるとは思えませんが、これについての見解を機会があれば記事にしていただきたいです。
ありがとうございました。まるで自分の気持ちをそのまま文章にしたような印象です。たしか数場所前の鶴竜戦で、鶴竜は右上手十分、稀勢の里は左下手右おっつけのみ。展開はどうなるのかな?と思っていたら、稀勢の里が右からしぼりながら無造作に出ていくと、鶴竜はあっさり土俵を割ってしまったので、あまりの強さに絶句しました。不十分な体勢で横綱に勝てるのに、この力士はなぜ支配を一度も抱けないんだろうと逆に疑問を持ちました。ここまで期待に沿えないスポーツ選手は、89年の日本シリーズの原辰徳以来ではないでしょうか。
ともあれおめでとうです。
15日間の成績で競う本場所の競技の性格上、稀勢の里が優勝するのは不向きだと捉えていました。ワンマッチでは最強だと当時から思っていました。ただ、今なら本場所でも戦える力士に成長しました。それが嬉しいのです。
ドラマがドラマを紡ぐ。だから稀勢の里のストーリーは大河ドラマなのだと思っていました。ちなみにするかしないかですることを選んだ男の物語というのは、荻昌弘さんが映画ロッキーを評した時の言葉です。稀勢の里にはピッタリかなと思いました。
いい例えですね。スラムダンクで言えば陵南の魚住のような、全てが出来る訳じゃない。出来ないことは山ほどある。でも、負けない武器が有る。それを愚直に伸ばしてきた力士が稀勢の里だと思います。
稀勢の里はドラマが多過ぎて、毎回ドラマが紡がれる大河ドラマのように思えてならなかったために、今回のタイトルとして選びました。
横綱昇進については別の機会に記事にしようと考えていますが、千秋楽の取組では白鵬が稀勢の里を認めたがための戦術を取ってきました。是非はともかく、横綱としての務めを立派に果たすのではないかと確信しました。
稀勢の里のストーリーは魅力的すぎるので、これからの報道次第で更に相撲人気が加速するのではないかと思います。ただ、ここまで稀勢の里を目撃し続けてきたので、ここから入ってきた方には稀勢の里を説明出来ることが嬉しくて仕方ありません。