【特別編】箱根駅伝の実況が持つ、謎の中毒性とは?
箱根駅伝が好きである。
更に言うと、日本テレビの実況で観る箱根駅伝が好きである。
あの過剰な実況が合わないという人も多いと思う。
その気持ちは判る。痛いほど判る。
何故なら私自身もつい最近までそうだったからだ。
駅伝が他のスポーツと決定的に違うのは、
ゲーム性がほぼ無く、競技中に発生している
本当に伝えなくてはならないことだけを
実況していては間が持たないということである。
6時間も観ている側の興味を持たせるための
苦肉の策としてあの実況は誕生したわけである。
飲み会の席で周囲が酔うと自分がシラフになるように
実況の熱量が増せば増すほど視聴者は引いてしまう。
脇腹を押えました。
足をパーンパーンと叩きました。
アゴが上がりました。
こう畳みかけられると、相手の思い入れが強すぎて
思い入れを持って観ている自分を客観的に見ることに繋がる。
そしてその客観性は実況や駅伝そのものにまで派生し、
素直に受け止められないどころか逆に
斜めから見る視点にシフトしてしまう。
過剰な実況はこうした効果を生むことになる。
それ故、自分に酔っ払っている実況に対して
共感しない人は総じてアンチ化するのだ。
だが、冒頭にも書いたように私はこの実況で観る
箱根駅伝が好きなのである。
勿論過剰な説明に対する苛立ちの観点は残っている。
テレビの前で文句を言うのは20年間変わり無い
正月の風物詩と化している。
感情的な不快感が残っていながら、
しかしパチンコ屋の煽りにも似た謎の中毒性が有る。
過剰なことは100%悪ではない。
ユーロビートやトランスのような音楽のことを
「ゲスカルチャー」と評する人が世の中には居るのだが、
過剰な装飾を加えることで快楽に発展する
ゲスカルチャー的な楽しみ方が駅伝実況には有るのだ。
実況サイドが自分の話に酔っているとか、
必死に盛り上げようとしている痛さとか、
そういう思考を捨てさえすれば
実は耳心地良く楽しめるということを
ここ数年で気づくことが出来た。
知識や経験が増すほどに楽しめる幅は狭まる。
理屈でモノを考えたり、楽しめない要素に目を向けたりという
社会人生活で必要な要素を排除して
テンションが上がることに対して忠実になれば
箱根駅伝はもっと楽しい。